ヨレヨレの日々

 ちょうど今からほぼ一年前、精神科の門を叩いた。

 鬱状態がひどく、どうにもこうにもならなくなったからである。それから医者の処方による投薬治療を受け続けたのだが、結論から言うと、処方された薬とも医者とも相性が合わなかったみたいで、あまり改善はみられなかった。

 その為、いつしか医者を変えよう、と考えるようになった。しかし、抗鬱剤というのは急にやめると危険なのである。そこで、円満に医者と別れるために、病院に言っても、嘘の申告をするようになった。すなわち、本当は調子が悪いにもかかわらず、医者の問診には「大丈夫です!」と言い続けたのである(危険なのでよい子の皆さんは決してマネしたりしないように)。

 その結果、徐々に投薬の量を減らし、その医者から「もう通わなくていい」、というお墨付きをもらったのである。実際、その当時は確かにそんなに調子は悪くなかった、ということもあった。

 

 ところが、四月になって、急にドッと忙しくなった。

 担任を持った、ということもあるし、その中に頻繁に問題行動を起こす生徒がいた、ということもある。土曜日授業が開始され出勤日が増えた、ということもある。更には断りきれずに住んでいるマンションの管理組合の役員になり、中でも一番忙しい「会計」の仕事についてしまった、ということもあった。この会計の仕事は、マンションの全住民の管理費・修繕積立金の金の流れをチェックし、しょっちゅう伝票を起こしては通帳をチェックしたりそれをパソコンに入力して出納状況を記録したりと、まことに忙しくかつ責任の重い仕事で、この仕事を始めて以来、何度も帳簿の数字が合わないで困るという悪夢を見るようになってしまったほどである。

 そんな日々を送っているうちに、6月後半になって、鬱状態が一気に悪化した。

 憂鬱がひどくて、気力がわかず、集中力がなくなるのは以前と同じであるが、それに加えて、今回は胸苦しさや吐き気を感じるようになってしまったのである。また、憂鬱によって体が痙攣のような震えを起こす頻度もひどくなった。傍から見れば、暗い顔をして口数が少なく無反応で、しょっちゅうビクンッビクンッと震えを起こしているという、明らかに「異常な人」であったはずだ。

 たまりかねて新たに目星をつけていた病院に電話を入れたのだが、予約がいっぱいで、診てもらえるのは半月以上も先であった。

 とにかく毎日仕事を休むことばかりを考えていた。だが、色々なことが重なって結局休むことすら出来なかった。とにかく、辛く苦しい日々であった。

 

 それでもどうにか通知表を渡して一段落、という一学期の終業式まで辿り着けた。運が良かったという他ない。

 そして現在は新しい医者にかかり、新たな投薬治療も始めた。今後どうなるか、予断を許さない。

 

 さて、先日、早めの夏休みがとれたので、海に泳ぎに行ってきた。

 久しぶりに仕事から解放され、シュノーケルで水面を漂いながら、たまに泳いでいる水中の魚を目で追う、というのはなかなかよいものである。

 ちょっと沖の方に泳いだところに岩場があり、そこにはたくさんの魚がいる。前日にも泳いでそこにいってそのことを確認していたので、再びそこまで泳いで行こうとした時のことである。

 まだ目的の岩場まで辿り着かないうちに、急に「もしも泳いで帰れなかったらどうしよう」という考えに囚われてしまったのである。水深はざっと3〜4メートルというところか。岸からそれほど遠い距離ではなかったにもかかわらず、何故かものすごく不安が募り始めた。そこで急に引き返すことにして反対方向に泳ぎ始めた。だが、その時の「予期不安」を引き金にして、パニック発作のスイッチが入ってしまったみたいで、心臓が急に早く鳴り出したのである。

 心臓の鼓動が早くなれば、呼吸も早くなる。シュノーケルをくわえての呼吸が苦しくなってきた。しかも岸に向かって泳ぎだしたら想像以上に流れの抵抗がきついことがわかった。これがまたパニックに拍車をかける。

 そのうち、意志とは無関係に体がおかしなことを始めた。シュノーケルをくわえているにもかかわらず、平泳ぎのように水面から顔を出して呼吸をしようと試みているのである。そんなことをしたって息苦しさには変わりがない上に前に進まなくなるというのに。

 この時「やばい、おぼれかけている!」と自覚した。子供の時以来の恐怖の感覚である。そして、苦しさの中で「今おぼれたら死ぬ」と思ってゾッとした。

 そのビーチには監視員が確かにいる。だが、地元の警察がやっているというその監視員は、ブイのあたりを適当にチェックするだけで、後はあまり注意を払っていない、ということを前日の様子から知っていたのである。

 従って、今溺れたら、誰にも発見されることなくジ・エンドであった。前年に引き続き、またしてもパニックを起こしたことによって命の危機を迎えてしまったのである。

 とにかく死にたくない一心で、「落ち着け! 落ち着け!」「シュノーケルをつかって呼吸をするんだ」「とにかく少しずつでもいいから岸に向かって泳ぐんだ」と自分で自分の心に言い聞かせた。そうしなければ、海面から顔を出して手足をバタつかせてしまいそうな予覚があった。そうなってしまったら後は水をたらふく飲み込みながら沈んでいくのみである。

 

 どうにかこうにか、必死になって泳いで岸まで辿り着くことができた。またしても九死に一生を得たのだ。

 だが、依然として心臓はバクバクバクとものすごい速さでなり続けていた。

 父親のただならぬ様子に娘が心配そうに「どうしたの?」と聞くが、うまく返事をすることすらできなかった。

 ただ、うつろな目をして海を見つめたまま「我が人生、ほんとヨレヨレだな……」と呆然とするばかりなのであった。

 

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