からっぽだった

 以前に書いたように、3月末から4月にかけて、約10日間ほど一人暮らしをした。

 この間、基本的に平日は仕事に追われる日々だったのであるが、土日が休日なので、その日が来るのを楽しみにしていた。

 久しぶりのひとりっきりで自由に使える休日である。色々とやりたいことがあってウキウキと心待ちにしていたのである。

 まずはプロジェクターを使ってDVDの映画をじっくり鑑賞したい。観たい映画がずいぶん溜まっているのだ。

 気ままに散歩に出るのもいいだろう。あちこちをあてもなくぶらぶらするのだ。夕暮れになったら、久しぶりに銭湯などにも行きたい。その後、どこか旨い酒を飲ませる店に立ち寄るのもいいだろう。あるいはデパ地下あたりに行って気の利いたつまみを買ってくるのもいいだろう。帰宅してそれを肴にいい酒をじっくり傾けるというのも魅力的だ。その時にはちゃんとしたオーディオ装置でいい音楽を流そう。酒と音楽とに陶然としながら好きな本をぼんやりと読み返すのもいいだろう。なんならそのままウトウトうたた寝してしまったってかまわないのである。実際、独身の頃はよくそんな時間を過ごしたものだ。

 たまにニョーボ子供がいない時くらい、そんな落ち着いた自由な時間を味わいたい、とずっと思っていたのである。

 

 そして、現実にその土日がやってきた。

 結論から言おう。何もできなかった。上に書いたようなことが何一つとして、だ。

 確かに、洗濯をしたり掃除をしたりという実務的な作業に時間をとられた、ということはある。しかし根本の原因はそういうことではない。全く気力がわかなかったのだ。何もする気にもなれなかったのである。

 生産的なことと言えば、洗濯掃除の他は買い物に行った(結局デパ地下どころか近所のスーパーで必要最小限のものを買ったのみである)程度で、後は殆ど外出すらしなかった。あれほどいい音楽をじっくり聴きたい、と願っていたにもかかわらず、アンプのスイッチを入れることさえ面倒に思えてしまったのである。いわんやDVDで2時間を越す映画を観る気になどまるでなれなかった。やったことと言えば、せいぜい雑誌をパラパラ。ハードディスクレコーダーに取り貯めたビデオの整理。パソコンでのメール打ち。……その程度か。後はひたすら呆然としていただけである。

 いったい何がどうしてしまったのだろう?

 

 考えてみればここ数年、普段の生活は「やりたいこと」ではなく「やらなければならないこと」を中心として動いている。

 職場においては、第一線のプロたらねばという意識から、いやな仕事でも我慢してせっせとこなし、なんとか勤務をこなしている。

 家庭においても、良き夫でありたい、あるいは良き父親でありたいと願い、その役割を遂行するように努力している。

 言わば、「義務感」によって毎日が成立していると言っていいだろう。そして、義務の達成の為にはある程度「自分」というものの抑制が伴う。

 しかしそういう日々が長く続くうちに、いつしか自分の本来の希望や意思といったものが少しずつ摩滅していったらしい。感覚的な願望はあっても、それを実行に移すための意欲がいつの間にか失われてしまっていたのだ。

 そして今回、久しぶりに「義務感」から解放されてみて、自分がすっかり「からっぽ」になってしまっていることを思い知らされた。

 だから結局その二日間は、本当に何も出来ないまま貴重な時間を無為に過ごすことしか出来なかったのである。

 

 年をとって定年退職したら、趣味の時間がいっぱいとれると以前は思っていた。

「会社を退職してしまうと、毎日何をやって過ごしたらいいかわからない」という、定年でリタイアした年配の人の話を効く度に、「やりたいことがたくさんある自分には無関係な話だな」と思い込んでいた。

 ところが現実には「何をやっていいか」どころか、「何をやろうとしても何もできない」無気力で暗澹たる老後になるかもしれなくなってきたのである。これはなんともやりきれない。

 いや、もっともそれ以前に、定年後も生活費を稼ぐために何らかの仕事を続けざるを得ず、最後までずっと「義務感」に縛られたまま一生を終える、というより悲惨な選択肢もあり、今のところそちらの可能性の方がずっと高かったりするので、いっそう気が重いのであるが。

 

  つれづれ随想録トップへ戻る  管理人室へ戻る  トップページへ戻る