これか!

 東京都の職員なので、「職員カード」というIDカードを発行してもらっている。だが、これは普段は職場に置きっぱなしにしている。

 何故かというと、出勤時にこのカードをカードリーダーに通して、何時に出勤したからを記録するためである。退勤時も同じ。要するにタイム・カードとして機能するのである。

 テン・キーで数字入力しても記録は可能なのだが、カードの方が簡単で楽なので、忘れないよういつも職場に置いておく、という訳である。

 ところが、先日、いつものにように退勤時にカードリーダーを通して、「さあ帰ろうか」と思った後、ふと何かが気になった。

 何ということもなく「このカード、今日は持って帰った方がいいかも」という、根拠のない漠然とした予感がよぎったのである。割とそういうことは信じるタイプなので、その本能の命ずるままにIDカードをコートのポケットに突っ込んだ。

 

 その日は職場の送別会があった。

 春は人事異動の季節なのだ。職場を去る幾人かの人達とのお別れの飲み会という訳である。

 中華の宴会コースでアルコール飲み放題だったのだが、最初の乾杯にビールを飲んで、その後はずっとワインを飲み続けた。

 本当はもっとずっとビールを飲み続けたかったのだが、瓶ビールだったので諦めた。何故か。あの「お酌」という習慣が苦手だからだ。ビールは注ぎ足しすると美味しくなくなる。それはずっとこのサイトでも訴え続けてきたことである。

 若い頃はまだ気力があったから、ビールの注ぎ足しが何故美味しくないかを飲み会の度に(失礼にならないようなるべく朗らかに)訴え続け、いつか「この人はビールの注ぎ足しを好まない」ということが周知されるよう努力をしてきたのであるが、いかんせん、年のせいか面倒くさくなってきた。

 人からのお酌を拒否するとその人を嫌っているかのように誤解されるし、人のコップに注ぎ足さないと無礼者のように思われる。とかくに人の世は住みにくい。

 ということで、早々とビールを諦めて(ビールが一番好きなんだがなぁ)、ワインに切り替える。まあ、ワインも好きではあるけれど。

 会そのものは楽しく、話も弾んで酒もついつい進んだ。

 だが、実はまずいことに前日から喉が痛くなっていて、その日はちょっとだるい明らかな「風邪気味状態」だったのである。

 ところがアルコールが回ってくるとそのだるさが緩和されてしまうのである。それで体調不良も忘れてカパカパとワインを飲み続けた結果どうなったか。

 皆と別れた後、最寄駅まで歩いていった所までは覚えているのだが、その後に記憶が飛んだ(「飛んで飛んで飛んで〜♪」なんて歌が昔あったな)。

 

 鉄道の乗務員とおぼしき人によって起こされた。電車の中である。

「この電車は終電だけど、大丈夫ですか?」

 ハッとした。いつの間にか電車の座席で眠りこけていたらしい。しかもえらい時間が経っている。どこかの駅に着いたらしい。

「ありがとうございます!」

 とお礼を言って、今はどこなのかと外を視るのだが、視界がぼやける。眼鏡がないことに気が付く。いつも近くの文字を読む時には眼鏡を頭の上にあげるので、またそれかと思って頭に手をやるがない。眼鏡がない。カバンの中にもコートのポケットにもない。どこかに落としたのかと周りを見回すが、視界がぼやけてしまった良く見えない。うわあ。

 パソコン作業のために近距離用の眼鏡があるので、それをかけて改めて見たら、自分が降りなければいけない一つ手前の駅であることがわかった。とりあえず、ホッ。だが眼鏡はどこにもない。カバン類や財布はすべてちゃんとあるのだが、眼鏡だけがないのだ。

 眼鏡というのは普通にしていても外れるもんじゃない。眼鏡をかけてスポーツだって出来るくらいなのだから、明確な意志を持って外さないと外れないものなのだ。ということはどこかで外したということか? 酔っ払った時の俺、何を考えているのだ?

 だが、結局眼鏡が見つからないままに降りるべき駅に着いてしまった。電車から降りざるを得ない。

 おまけに終バスがとっくになくなってしまったので、帰りはタクシーである。とんだ余計な出費だ。

 そういう訳で傷心のまま家に帰った。

 

 思えば眼鏡を紛失したのはこれで3回目である。1度目は海で。2度目は散歩の時に近距離用の眼鏡をポケットに突っこんでいて。どちらも見つかることはなかった。そう思うと、何とも暗い気持ちであった。

 

 翌日、二日酔い気味の頭でフラフラしつつも、ダメもとで鉄道会社の忘れ物問い合わせ窓口に電話をした。一応それらしきものがあるかどうか調べて折り返し電話してくれることになった。

「これで眼鏡を作り直すとえらい出費だよなー」と再び陰鬱な気分になる。それでなくてもこの間、コンタクトが汚れで使用不能になり、作り直したばっかりなのだ。

 

 十数分後、電話がかかってきた。それらしいものが見つかったという。おおっ!

 なんと、あの駅員さんに起こしてもらった駅である。とりあえずそれかどうか、直接足を運んで確認してほしいとのことであった。

 電話で特徴を聞いて確認したところ、どうも自分のものの可能性が高い。やれありがたやありがたや。日本の鉄道会社は世界一だ! こんな一文にもならないことにエネルギーを費やしてくれるなんて。

 ということで、早速出かける用意をして、着替えてコートを羽織ってから「ハッ」とした。ポケットにIDカードが……。

 そう言えば、先ほどの電話のやりとりの中で、「忘れ物を引き取る際には、本人と身分が確認できるものを何か持ってきてください」と言われたことを思い出した。

「これか!」

 予感は当たったと言えば当ったのかもしれない。しかし、まさかこんなこととは……。

 

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