風になれたら

 風になれたら、と思う。

 

「吹く風にわが身をなさば玉すだれひま求めつつ入るべきものを」(「伊勢物語」)

(大意:私の体を風にすることができたなら、玉すだれの透き間を通って中に入り、貴女に会うことができるのになあ)

というような、ロマンチックな話のことではない。死後の話だ。

 

 白洲次郎は遺言書に「葬式無用 戒名不用」と書き残したという。いいな、と思う。最近は葬式も小規模になってきて、身内のみでの家族葬というのも増えてきたみたいだ。いい傾向である。

 まだ地域共同体みたいなものが成立していて、親戚や近所が助け合って生きていた時代ならまだしも、今の時代に大げさに人を集めたり費用をかけたりして葬式をやっても双方にとって苦労や負担ばかりなのだから、もうそういう風習は見直すべきであると思う。

 ついでに言うと、火葬というのも嫌だ。もともと暑いのは苦手なのだ(死んでるけど)。

「風葬」というのがいいな。死んだらそのまま野ざらしで放っておかれるの。昔の日本でも平安時代あたりにはあったらしい。有名な京都の鳥部野も風葬地の一つだとか。燃料代等金のかかる火葬は一般庶民には無理で、経済的な風葬が一般的だったそうである。なにしろただそこへ運ぶだけでいいからね。もちろん遺体は烏や野犬によって食い荒らされることもあっただろう。でも、そこがまたいい。肉体が他の生物の一部となって生きていく。自然界の連鎖の一部に連なるのである。無駄に燃料を使って灰にされるよりよっぽどいいじゃないか。

 風にさらされて風化していくから風葬。名前もまたいい。これなら風になれそうな気がする。残念ながら現代日本では望むべくもないけど。

 

 父親が死んだ時、病院で父の遺体と対面して最初に思ったのは、「ああ、父はもうここにはいないんだな」という感想であった。文字通りの「亡きがら」にしか思えなかったのである。父の魂はどこかへ消え去ってしまっていたのである。だから、遺骸にも遺骨にもあまり思い入れはなかった。

 

 社会学者の見田宗介氏によれば、この世に「顕在態(ウラの世界)」と「潜在態(オモテの世界)」とが存在するという考え方は、世中界の多くの文化の古層で共通するものだという。つまり、この世には「見える世界」だけではなく、同時に「見えない世界」というのも存在するという考え方である。だから日本の文化にも「現世(うつしよ)」と「隠世(かくりよ)」という言葉がある。

 そして、ウラの世界とは聖なる世界なのだとか。

 例えば植物は枝や茎や葉とは全く異なる鮮やかな色の花を咲かせる。それは聖なる世界の美しいものがオモテの世界へ現れ出たものなのだという。昔の人はそう考えたらしい。

「だから日本でも江戸時代まではたとえ幼い子供であっても、花をむしることは止められていた。死んで『あの世』の存在となったときに初めて、花は手向けてもらえるものだった(『社会学入門』見田宗介著より)。

 日本の古典では「死」を婉曲で表現した言葉が多い。「隠る」「なくなる」「失す」「消ゆ」「往ぬ」「去る」等々。もしかしたら、昔の人は、人間が死ぬということは姿の見えない別の存在となることを知っていたのかもしれない。聖なる「隠世」での存在となることを。

 

 父の死んだ直後、ある友人が「A thousand winds」という英語の詩を手渡してくれた。慰めてくれるつもりだったのかもしれない。作者は不詳だという。

 

 Do not stand at my grave and weep,

 I am not there, I do not sleep.

 I am in a thousand winds that blow,

 I am the softly falling snow.

 I am the gentle showers of rain,

 I am the fields of ripening grain.

 I am in the morning hush,

 I am in the graceful rush

 Of beautiful birds in circling flight,

 I am the starshine of the night.

 I am in the flowers that bloom,

 I am in a quiet room.

 I am in the birds that sing,

 I am in each lovely thing.

 Do not stand at my grave and cry,

 I am not there. I do not die.

 

 英語の歌詞というのはいい。日本語と違って意味が限定されないからだ。日本語だと一人称ひとつとっても「私・僕・俺・吾輩・自分・拙者・小生等々」と、言葉で関係やシチュエーションが限定されてきてしまう。だが英語だったら「I」をどう訳そうが自由だ。その時の自分の気持ちに引き寄せて解釈することが可能だから感情移入しやすいのだ。

 この詩を読んで理解した。そうだあの時に父がそこにいないと感じたのは、きっと風になったからなんだ、と。人は死んだらその魂が風になるのだ。そう思いたい。「隠世」に行くとは、きっとそういうことなのだ。

 

 ところがその後、この英詩に日本語訳して歌った歌手が現れた。そしてその張り上げるような歌声は瞬く間に日本全土に広がった。

 もちろん日本語訳するのも歌うのも個人の自由である。だが少なくとも商業ベースに乗せるのは止めてほしかった。この詩はあなたの所有物ではないじゃないか。歌うまでにどんなエピソードがあろうが売り上げを基金としてチャリティーに使っていようが、そういう問題じゃない。

 あの大音声の歌詞のおかげで、それまで「A thousand winds」に対して自分の抱いていたイメージはぶち壊しになってしまった。嗚呼である。現世は所詮、憂き世でしかないのか。

 

 風になりたい。

 風になれば痛みも悩みもなくなる。

 風になればすべての苦しみから解放されるのだ。

 そして風になれば、現世ではもう逢うことが出来なくなってしまった貴女のもとに行くことだって出来るのだ(最初と言っていることが違う!)。

 

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