土着人にとっての東京
震災直後の3月17日に、仕事で新宿へ行く用事があった。
仕事が終わった後、新宿の街をぶらぶらと歩いてみた。
デパートは閑散としており、ブランドショップはのきなみ閉まったままだった。
駅の構内は照明を落としているためか、全体的に薄暗くかった。
うすらさびしい光景ではあるのだが、どこか懐かしい思いがするのであった。
ある時、本を読んでいて、宮部みゆきさんが「土着の東京人」という言葉を使っているのを見つけて、「これだ」と思った。さすがにプロの作家は言葉の使い方がうまいね。
彼女はこう書く。「それは、言ってみれば、『生まれ育った町としての東京』であり、そこに住んでいて、世に喧伝されている『格好いい東京、スマートな東京』についてゆくことのできない、思いてけぼりを食っている『東京人』のことなのです。 そう、都市化が進むにつれて、とろい「土着人」が知っていた東京は、個々の生活スペースの大きさにまで、こなごなに粉砕されてしまいました。もともとあった『東京』は、今存在している、幻想の『東京』、外面しかない『東京』に負けてしまったのです。」
地方に住んでいて、しばしば東京のことを批判する友人がいる。機会あるごとに地方がいかに大変で悲惨であるかを訴え、それに比べて東京は優遇され恵まれているかを強調するのだが、どうもそれがピンとこないことが多い。
東京は言われるほど本当に恵まれているのだろうか。そんな疑問をずっと持っていたのだが、宮部さんの文章を読んで疑問が氷解した。
友人の批判する東京と、俺が住んでいる東京とは別のものだということだ。
すなわち、幻想の都市としての東京と、土着人にとっての東京である。
一言で「東京」と言ってもその範囲は広い。多摩も島嶼も東京である。
23区に限っても、区によってその差は大きい。
例えば、ワンルームマンションの平均家賃(約20u)は、港区は122,000円だが、俺の育った葛飾区だと56,000円である。ずいぶんと差がある。ちなみに全国平均は40,827円である(数字は『東京23区ランキング(東京23区研究所編)』より)。
港区、と言えば高所得者がたくさん住んでいるのでこの家賃でも十分に支払っていける、ということなのだろう。ベンツの割合も約15%とかで、車の6〜7台に一台はベンツということになる。芸能人や実業家など華々しい世界の住人をたくさん有する港区は、ある意味「幻想の東京」を象徴する場所なのかもしれない。
だが、それは土着人にとっての東京の本当の姿ではない。
2006年に、朝日新聞が一面で東京の就学援助金のことを取り上げたことは衝撃的であった。
就学援助とは、生活保護家庭及びそれに準ずる困窮家庭は地方自治体が援助しなければならない、という制度である。
これが東京都は24.8%で、全国で2番目(一番は大阪府の27.9%)に多く、ほぼ4人に1人が受給者という計算になる。
しかも、これも地域によって差があり、最も多い足立区は42.5%だ。前述した東京を批判する友人の県は9.9%だというのに。
華やかなイルミネーションに彩られた幻想都市東京の、光の当たらない影の部分は貧乏人の巣窟だということなのだ。
これは何も数値を出さなくても、東京の下町を中心に住み続けた俺の実感でもある。
子供の頃に愛読した「巨人の星」や「あしたのジョー」の街並みや暮らしは、今でこそパロディーの対象にように扱われるが、紛れもない日常の世界そのものだった。
三畳と四畳半の二間に台所だけという間取りのアパートに一家四人が生活している友人がたくさんいた。
家に風呂がある家は珍しく、皆が夕方には銭湯に通った。
クーラーのある家などほとんどなかったから、夏場は殆どの家は窓や玄関の扉を開け放ったまま寝ていた。
治安が今ほど悪くなかったとも言えるが、実は泥棒に入りこまれても盗む金目のものなど殆どないから、という理由も少なくなかっただろう。
近隣の付き合いがあるから、近所には誰が住んでいるか家族構成も含めてわかっていた。そういう付き合いは面倒で煩わしい一面はあるものの、安心感の方がずっと強かった。何よりも、皆が助け合わなければ生きていけないような貧しい時代だったから。
貧しくはあったけど、暮らしの中にぬくもりのある時代だった。
震災直後の薄暗い新宿駅構内を歩きながら思った。
ああ、昔の駅はこの程度の明るさだったのだな、と。だから懐かしく感じたのか。
照明の厚化粧を落とした、土着人にとっての「素顔の東京」の姿を久しぶりに見たような気がしたのである。