九月二十日のころ

 

 本当は「九月二十日の出来事」とでもすべきところなのだけれども、「徒然草」の中に「九月二十日のころ」とい有名な章段があるので、それにあやかった。

 もっとも向こうは古典三大随筆、こちらはへたれエッセイということで、タイトルだけ同じにしても彼我の差は甚だしいのであるが。

 

 で、その九月二十日なのだけれども、日曜祝日にやった文化祭の代休で、平日の火曜日であるにもかかわらず休みとなった。

 そこで、かねてから行こうと思っていた店に足を運んだのである。

 それは銀座にある和食の料理屋である。

 そこで、かつての教え子が働いているらしいのである。

 その店にはずっと行きたいとは思っていた。だがそこは場所柄もあってそれなりの高級店なので、夜の値段だとおいそれと足を運べなかったのだ。

 それが、平日の昼のランチならば1,000円であることがわかったので、いい機会なので行ってみることにしたという訳である。

 

 彼は俺が教員になって初めて担任した生徒である。

 正直言ってあまり勉強は得意な方ではなかったが、明朗でかつ優しい性格だったので、皆からまんべんなく好かれていた男だった。

 だが、残念ながら高校二年の時に学校を辞めざるを得なくなってしまった。

 色々なことがあって……本当に色々と複雑な事情があって、そのため、彼とは苦い形で別れることとなってしまったのである。

 その後二十年もの間、彼の消息は何一つわからなかった。

 

 彼のことを二十数年ぶりに俺に教えてくれたのは一枚の年賀状だった。

 一年生の時に彼と同じクラスだった女子生徒が、実に久しぶりに年賀状をくれたのである。

 そのハガキの端の方に、彼が銀座の店で働いていることが書き添えられていたのである。

 さっそくインターネットでその銀座の店を調べてみた。

 驚いた。けっこう高級な店なのである。いや、それ以上に驚いたのは、彼がその店の料理長だったことである!

 それからずっと、いつかその店に足を運ぶことを考えていたのである。

 

 どうやら繁盛店のようなので、店が混む前に入ろうと思い、ランチの始まる12時ちょうどに店ののれんをくぐった。

 店の奥の方に入っていくと、正面にカウンターがあり、庭園に面した右側がテーブル席になっていた。

 そして、そのカウンターの中では料理長が自ら腕をふるっているではないか。

 接客の女性店員さんに「どちらにおかけなさいますか」と問われたので、迷わずカウンター席に座る。

 この店では、その日に契約漁港から直送された魚介を使っているという。

 そのために、本当にランチは日替わりで、「時価等の理由により魚の入荷が出来なかった場合は、その日のランチ営業はお休みとさせて頂きます」とまで謳っているのである。これは期待が膨らむ。

 その日は「カマスの塩焼き」と「カツオの刺身」の二種類だったので、カツオの方を頼んだ。

 

 カウンターの中では、料理長が手際よく刺身を切り、料理を盛り付けている。他の店員もきびきびと働いている。よい店だということがこういうところからもわかる。

 二十数年も歳月が経てばさすがに姿・形は変わる。もしあらかじめ教えてもらっていなければ、彼だとわからなかっただろう。

 けれども、そうだと思って見てみると、確かに昔の面影がある。明るい笑顔でいつも皆の気持ちをなごませてくれたあの優しい顔だ。

 たまにちらりとこちらと視線が合う。だが、さすがに向こうはわかるはずもない。

 彼にしてみれば、ただの一見客にしか見えないだろう。

 

 やがて半月型の盆に載ったランチが出てきた。カツオの刺身とカツオのたたき。たれはポン酢醤油と生姜醤油の二種。黒豚の角煮にトマトソースがかかったもの。それにゆで卵が添えられている。具がたくさん入ったアラ汁。ご飯と香の物。ご飯はおかわり自由だという。

 料理はどれもが皆美味しい。いや、当然か。美味しくなければここ銀座で長くやっていける訳がない。

 料理の世界は厳しい。

 教え子の中でも調理の道に進んだ者は数多くいるが、彼らの大半は途中で脱落している。

 せっかくいい店に入っても、朝は早く、休みは殆どなく、給料は安く、かつ下積みの仕事がきついとくれば、余程の根性がなければ続くものではない。

 彼がどういう理由で調理の道に進んだかは知らない。

 だが高校を中途で辞めた後、長い長い修行の道を歩んできたことは確かだ。きっとたくさんの苦労があったことであろう。

 だが彼は今、銀座の一流店の料理長となって目の前にいる。努力が実を結んだのだ。

 良かったな、と思う。頑張ったんだな、と思う。おめでとう、と思う。ちょっぴし目頭が熱くなる。

 残念な形で別れてしまったけれど、こんな形で再会できて良かったな、と思う。

 

 少し迷ったけど、忙しそうに働いている彼の仕事の邪魔をしては悪いと思い、あえて名乗らずに帰ることにした。

「ごちそうさま。」

「ありがとうございます。」

 料理長とまた目が合った。でもやっぱり彼は気が付かない。

 そのまま支払いを終えて、店を出た。

 

 銀座の中央通りに出た。秋を感じさせる涼やかな風が気持ちいい。

 歩きながら「手紙を書こう」と思った。

 今日直接口で伝えられなかったことを、手紙を書いて伝えようと思ったのである。

 せっかくの休日なので、銀座の街をぶらぶらと歩いた。

 途中でデパートに入り、ワインを買った。

 普段はワインは量販店で買う。しかもチリ産や南アフリカ産の安いものばかりだ。

 でも、この日はフランス産ボルドーのワインを買った。デパートで自分用のワインを買ったのは初めてのことかもしれない。

 今日だけはいい酒で個人的に乾杯がしたかったのだ。

 

 平成二十三年の、九月二十日。

 ちょっとだけいい一日だった。

 

  つれづれ随想録トップへ戻る  管理人室へ戻る  トップページへ戻る