その隣人はやってきた
「小確幸」ってありますよね。小さくてささやかだけれど、けっこう確実に訪れてくれる幸せ。
例えば天気のいい日に布団を干して、その夜に暖かい布団に潜り込む時。
例えば時間がたっぷり確保できた時に本屋に入り、じっくりと店内を物色する時。
例えば聴きたかった新譜を携帯音楽プレーヤー(ちなみにウォークマン派です)に入れて、外出する時。
例えば、仕事後に帰宅して入浴した後、冷蔵庫にビールが冷えているのを確認した時(結局やっぱりビールかよ)。
俺の小確幸の一つに、職場で飲む朝のコーヒーというのがある。
これは職場の先輩であるNさんが毎朝入れてくれるものだ。
我々の仕事(高校教員)は勤務開始が8時半である。
だが、色々な準備があるので俺は割と早めに、7時半には出勤するようにしている。Nさんもその15分後位に出勤してくる。
だから、朝の準備が一段落すると、ちょっとだけ時間に余裕が出来るのだ。
その時に、Nさんがコーヒーメーカーで香りの良いコーヒーを入れてくれるのである。それを俺にも勧めてくれる。
コーヒー好きなNさんは旨いコーヒーを飲むために、わざわざ自宅からコーヒーメーカーを職場に持ってきているのだ。
この、朝の仕事前に飲むコーヒーがしみじみと旨い。
どちらかというとあわただしい朝の時間だからこそ、この一杯で落ち着ける時間があることが嬉しい。
Nさんはこの朝入れたコーヒーの残りを保温ポットに入れておく。
こうしておくと、香りもあまり飛ばず、一日おいしいコーヒーが飲めるという訳である。
ところが、この朝のコーヒーが飲めなくなってしまったのである。
俺の毎日の暮らしの中から小確幸が一つ、姿を消してしまったのである。
4月は人事異動がある。
我が教科にも転入者がいた。
その人の名はミノワさん(仮名)と言う。年齢は五十代半ばくらいであろうか。
初めて会った時には普通の人だと思った。普通にあいさつをして、普通に自己紹介をしたのだが、なかなか礼儀正しかったからだ。
着任当日は特に何もなかった。ところが翌日から……。
昼休み、ミノワさんは教科の部屋で昼食を取ろうとしていたのだが、そこに新規採用のS嬢がやはり昼食のお弁当を持ってやってきたのだ。
まだ教員に成り立てで、しかも職場にも慣れていない彼女に、ミノワさんは優しく声をかけた。
「そこのポットにお湯が沸いているから使っていいよ。その電子レンジも使って、使って!」
その言い方が、なんか、気になった。
ポットや電子レンジが学校の予算で買えるはずもない。これは教科の部屋をよく使う人間(つまり俺やNさんらの前任者)がお金を出し合って買った私物なのだ。
普通まだここに着任したばかりなのだから、同じ言うにしても、
「そこのポットや電子レンジは使っていいみたいですよ」とでも言いそうなものだ。
もちろん常識ある人ならば、それ以前にそれらを使っていいかどうか、前からいる誰かに確認するだろう。
それがもう二日目にしてこの言いようである。
なんか、いやな予感がした。
翌日、出勤して教科の部屋に行ってみると、もう誰かが来ている。
勤務時間の1時間前に出勤する俺はいつもこの部屋の一番乗りなのだが、それよりも早く来ている人がいるとは。
部屋の中を見ると、ミノワさんだった。
あいさつをしつつ中へ入り、ふと足元に目が行くと、なんだか昨日よりすっきりしていることに気がついた。
部屋の隅に積み上げてあった、廃棄予定の書籍がなくなっているのである。
どうも、ミノワさんが捨ててくれたらしい。意外にまめな人なのだな、と思う。
だが、それだけではない。
ロッカーの上に乗っていた段ボール類や、足元にあった荷物類がすっかりなくなっていたのである。
ロッカーの上の段ボールの中身は、古いパソコンのソフトやメディア、厚紙等。足元の荷物は前任者が置いていった教材類が主なものだ。
どちらも、捨てられてもそんなに問題はないのだが、文化祭用にとっておいた厚紙を処分されてしまったのにはマイッタ。
しかし、普通捨てる前に捨てていいかどうか他の人に確認しないか?
どうも、彼は自分にとって居心地がいいよう、勝手に部屋の整理を始めたらしかった。
そのため、1日毎にどんどん部屋のレイアウトが変わっていくのである。だから気が気じゃなかった。
ある朝、ふと気がつくと、部屋の隅のカゴに入れておいたバレーボールがない。これは卒業生から譲り受けたもので、レクリエーション等に使えるように置いておいたものだ。それがなくなっていたのである。
Nさんも去年の文化祭で使った残りのペンキや刷毛等の道具がいつの間にかなくなっている、と言う。
犯人は一人しか考えられない。
早速ミノワさんに聞いてみたところ、バレーボールはバレー部の生徒(彼はバレー部の顧問なのだ)に渡したとのこと。「汚れているボールだから外で使うように」という指示まで出したと言う。Nさんの文化祭の道具も案の定彼の仕業だった。
文句を言うと、ミノワさんは丁重に謝り、翌日にはバレーボールは部員から取り返してくれた。迅速な対応であった。つくづくわからない人である。
ミノワさんがいない時、Nさんと話をしたのだが、Nさんは「今さらもうあんまり無用な争いはしたくねえしなぁ」とこぼした。Nさんは一昨年に定年を迎え、現在は再任用で勤めている。給料は半分になったにもかかわらず担任までやらされているのだが、後一年位で辞めたい、と常々言っている。
「五十過ぎまでああいうスタイルで来たということは、今更もう何を言っても改まる訳ないよなぁ」とNさんはコーヒーの飲みながら言い、俺も同意した。困った隣人であるが、Nさんはもうすぐ退職。俺ももうすぐ異動の予定なので、それまではなんとか適当にやり過ごすしかない。
さて、その翌日。いつものように教科の部屋に入ってみると、部屋中にいい香りがする。
「あれ、Nさんやけに早いな?」と思ったら、違った。ミノワさんだった。
ミノワさんが、Nさんのコーヒーメーカーで、Nさんの豆を使い、勝手にコーヒーを入れていたのである。
もちろん、一事が万事の人だから、本人の許可などとっているはずもない。
ミノワさんは自分のカップにコーヒーを注いだ後、俺に向かって「あ、コーヒーを入れたのでどうぞどうぞ」などと勧めるのである。
そんなものもらえるはずもなく、「ちょっと今来たばかりで暑いので……」と言って適当にごまかして辞退した。
やがてNさんが出勤して、コーヒーが入れられていることに気がついたが、ミノワさんの前では平静を装って、特に何の反応も示さなかった。
が、後で二人だけになった時、
「まさか『俺が持ち込んだものだから使うな』というのも大人げないしなぁ」と嘆いた。
ところが、これだけではすまなかったのだ。
昨年の途中から産休代替で来ている女性の先生までもが、勝手にコーヒーを入れるようになったのである。
さすがにNさんもこれには立腹した。ミノワさんが常識はずれであることはわかっていたが、何でそれ以外の人までもが。
そこで彼女によくよく聞いてみたら、やはりミノワさんが一枚噛んでいた。ミノワさんが彼女に「ここのコーヒーメーカーは自由に使っていいよ」と言ったのだという。更には、「豆ぐらいは自分のを持ってきます」と言う彼女に、「いや、豆はここにあるからこれを使っていいよ」とまで言ったとか。
事情を説明したところ、彼女は恐縮して反省し、Nさんに謝罪してその件は何とか治まった。
さて、新しい人達が着任してから一ヶ月ほどが経ち、職場の歓送迎会が行われた。
歓送迎会では、退出者と着任者が紹介され、それぞれ一言ずつ話をすることになっている。
ミノワさんの順番になった。適当に当たり障りのない話をしている。これだけ聞いていると常識人のようにも見えるのだが。
ところが、他のテーブル席から声が聞こえてきた。
「ミノワさんと言えば、コーヒーだよな」
「そうそう」
「あれは嬉しかったよね」
などと声をかけている。壇上のミノワさんが照れ笑いをしている。
どうもミノワさんは、朝造ったコーヒーを、他の教科の部屋にわざわざ持って行って振舞っていたらしい。それで感謝されているという訳である。
俺のテーブルの斜め前にはNさんが座っていたのだが、すごく怖い顔して壇上を睨んでいた。そりゃあ怒るわな……。
ほどなくして、コーヒーメーカーも保温用のポットもNさんの手によって持ち帰られてしまった。
朝の美味しいコーヒーは飲めなくなってしまったのである。
しかし、肝腎のミノワさんはこの件に関して何の疑問も感じていないようである。つくづくこういう人にはかなわない。