読書感想文

 職場(高等学校)での話。

 自分自身が中学生だった時に読書感想文の宿題を出されたことがあるが、相当に苦痛だったことを今でも記憶している。読書というのは人から強制されてやる行為としてはやはり少し無理があるのではないかと思う。よって、本心ではあまり気が進まないのだが、そうであるにもかかわらず、生徒に毎年夏休みに「読書感想文」の宿題を出すことになってしまっている。

 というのも、司書教諭の先生が強い意向を持っており、ご自身でどんどん計画を進め、提出要項のプリントを作成し、それを印刷し、後は生徒に配るだけの状態で「ハイ」と手渡されるので、「やめましょう……」とも言えずに今日に至っているのである。

 

 気が進まない理由の一つに、提出された感想文を読むのが大変、というのがある。

 昔と違って、現在の小中学校ではあまり文章を書かせる時間というのがない。また、プライベートでも小中学生は本を読まなくなっているし、肉筆で文章を書くという習慣もなくなってきている。

 よって、そのような子供達が高校生になって書く作文というのは殆んど壊滅的なものがあるのだ。つまりは「てにをは」を含めて文章が無茶苦茶だし、構成も考えていないから内容も行き当たりばったりなのだ。

 そんなものを何クラス分も読まされても楽しい訳がなく、いくら仕事とは言え、相当につらいものがある。

 もちろん、そんな中にも上手なものはいくつかある。当然のことながらそういう子供達は普段から本をよく読んでいるし、文章も書きなれている場合が殆んどである。こっちにしてみれば、たまにはそういうのがなきゃやりきれんのだが。

 

 さて、昨年のことである。

 読んでいて、「これは」というものがいくつかあり、その中の一つが、枚数もちょうどよく、一定の水準に達しているので、司書教諭とも相談し、これなら読書感想文のコンクールに出せるのではないか、という話になった。

 ところが、いざ本人を呼んで、こちらの意向を伝えると、彼女はなんともうかない表情で、その提案を辞退したのである。

 その時にすぐにピンと来た。

 実は、読んでいる時から、件の彼女の作品をはじめとして、いくつかの感想文がどうも不自然に内容が整いすぎていることに、なんともすっきりしないものを感じていたのだ。

 日頃の彼等の読書量や、授業で書かせる文章から考えると、それはどうにも違和感があった。

 

 そこで、うまく書けているな、とは思いつつも何か違和感を覚える作品をピックアップし、インターネットで検索を始めてみた。そうしたら……。

 出るわ出るわ、どれもがネット上に公開されている読書感想文のパクリなのである。違和感を覚えた作品の殆んどがそうであった。インターネットが普及すると、こういうことも起こりうるのだなぁ、ということを改めて知った。

 

 コンクール候補に考えた作品は「自由に使える読書感想文」というサイトからのコピーであることがわかった。

 そのサイトはご親切にも「このまま読書感想文パクるもよし。少しアレンジしてオリジナルの読書感想文に仕上げるもよし。今年の夏休み宿題読書感想文から解放されたい君たちのために、学校提出に限り著作権フリー(つまりパクリコピペOK)自由に使える読書感想文を大公開!」とあった。はあ。ホント、色々なサイトがあるものなのだなぁ。

 管理人というか作者は著作も出しているプロのライターらしい。どうりで文章がこなれているわけである。

 このサイト、「パクリがばれそうになったら『これはオリジナルだ!』と最後まで言い張る根性を見せること」というアドバイスやら、「読書感想文のパクリがばれたら」と、反省文の文例の紹介やらまであって実に至れり尽くせりなのであるが、実際にパクリがばれる時というのは、このサイトの存在がばれる時であるのだから、こんな配慮はまぬけなだけの話である。

 パクリがばれたのに、開き直ったり、更なるパクリ反省文など提出したりしたら、返って火に油を注ぐ結果にしかならんじゃないかと思う。やれやれである。「『読書感想文』から解放された時間で夏休みのすてきな思い出を作ること」などと管理人は親切めかして書いてあるが、結局のところ、己の才をひけらかしたいだけなのだろう。

 

 さて、大量のパクリを見つけた後は気の重い仕事が待っている。

 盗作作文を書いた対象生徒を集めて、説諭指導しなければならない。

 こういう場合にどんな話をするか。

 実のところ、「ルールであるから」とか「卑怯な行為であるから」とかの一般論というのはあまり効果は期待できないのである。

 呼び出された場合の彼等彼女等は従順に耳を傾け、素直に話に頷くかもしれないが、それは表面的な部分だけであって、反省したというよりは、そうしていた方が早く説教が終わる、という過去の経験から学んだ条件反射的な部分が大きい。

 話はただ表面を上滑りしていくだけで、後には何も残らないのだ。

 だから、本当に彼等が納得し、自分自身と向き合って、自分のした行為のことを深く考えるような話でなければ意味がないということである。

 もちろん、そのようなことを考えさせる言葉というものも、言い方というものも存在する。

 しかしそれは、本で調べてもネットで検索してもどこにも出ているものではない。

 何年も何年もかけて、幾度となく生徒とぶつかりあい、幾度となく失敗し、後悔し、苦悩し、呻吟し、やっとのことで見つけられる、その当事者でなければ話せない「言葉」なのだから。

 

 まあ、つまりはそういうことだ。

 

 こういう指導は気が重いのであるが、うまく彼等の心に響くような話が出来た時は、ちょっとホッとするし、この仕事をしていて良かった(過去の失敗の経験が生かされたという意味で)と思える瞬間(数少ない)でもある。

 

 さて、今年である。

 部活指導のために放課後に柔道場に足を運んだのであるが、一年生部員が作文の下書きとおぼしき紙を広げていたので、覗き込んだところ、例のサイトから写した読書感想文であった。

「これをこのまま提出すると、お前は後で呼び出されて怒られることになるぜ。」

と言うと、その部員は驚いて、「ええっ、なんでわかったんですか!」などと言う。

 そりゃあ、同じような検索サイトを使って、同じような語句で検索すれば、同じ場所にたどり着くのは当たり前の話なのだが。

 そのことを説明してやると、

「文章を変えても駄目ですかねぇ……」などと未練がましく言っている。

 そこへ先輩である二年生のI君がやって来た。

「先生、パクリがばれたらもちろん減点されますよね!」

「ああ。当然だ。」

「そんなことになるくらいなら、と思って」

 俺と一年生部員が注目していると、彼は莞爾として笑って言った。

「俺は最初から提出しませんでした!」

と胸を張った。そうして、後輩にも「お前らもそうしろよ」などとアドバイスしている。

 嗚呼、である。

 

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