さようなら、先生

 毎年この時期になると、喪中欠礼ハガキが届く。ここ数年一定数の数が届くようになったのは、同世代の友人の両親がそろそろ亡くなるような年代であるためだと思われる。

 さて、この間も二通届いた。

 予想通り、一通は前の職場の同僚で、同じ位の年の人だったのであるが、やはり父親が亡くなったという知らせであった。

 そして、もう一通を手に取って驚いた。

 小学校5・6年の時の担任であった林マサハル先生その人が今年の四月に他界したという知らせだったのである。通知をくれたのはご婦人であった。

 享年八十三歳。確かに平均寿命から考えれば、死んだとしても不思議ではない年齢なのかもしれない。ただ、元気だったときのイメージしかわかないので、やはり唐突な感は否めないのである。

 

 小学校の頃のオレは、勉強は出来ないし、運動も苦手だし、作業は遅いし、落ち着きはないし、そのくせ態度が生意気だし、とにかく典型的な劣等生・落ちこぼれの類だったと言えよう。実際四年生の時までは先生からもそういう見方しかされてこなかったように思う。

 だが、5年生になって初めて担任してくれた林先生は違っていた。そんなどうしようもないオレの肯定的な部分を見つけて、それを評価してくれようとしてくれたのである。それはオレにとって新鮮な驚きであった。

 もちろん、基本的には「できんぼ」なので、席をいつも前の方の指定席にされたり、「遅い名人」なるありがたくない称号をいただいたりと苦い思い出も多いのであるが、一方でずいぶん励ましの言葉をかけてくれたり、汚名を返上する機会を与えてくれたのも事実だと思う。

 たぶんオレにとって生涯最初の「恩師」と思える存在だった。この先生と出会っていなかったらオレは現在の教員という職には就いていなかったかもしれない。

 

 少子化の昨今とは異なり、当時の小学校の教室では、たくさんの子供達がおり、たくさんの子供ならではの複雑な人間関係があった。

 子供は幼いから純真にして無垢であるかというと、そんなことは決してなかった。

 まるでそれが当たり前のようにいじめは横行していた。

 レッテルを貼って仲間はずれにする。無視する。持ち物を隠す。掠め取る。掠め取った鉛筆をへし折り、ノートを引き裂き、下敷きを叩き割る。

 体の弱い女の子が給食の時に嘔吐しがちなのを面白がり、彼女の周りに集まって口汚くはやしたて、彼女が嘔吐するまでそれをやめようとしない。

 人の嫌がることを率先してやる子供達がたくさんいた。

 子供というのは社会的なモラルの訓練が未熟な分だけ、酷薄であり、非情であり、残虐なのである。

 オレの人間観もこの時期にほぼ固まったと言っていい。もちろん「性悪説」である。

 時代が違うので、それでも学校を休む子はほとんどいなかった。学校とは絶対行かなければならない場所であり、昨今のように「行きたくなかったら行かなくてもよい」などと言う大人は一人もいなかった。

 毎日毎日が、生きぬくために知恵をしぼらねばならない「戦い」であった。

 

 一対一の単純なケンカが成立したのは四年生までだった。

 高学年、特に最上級の6年生になると、一部の子供達はグループを作って、数の力で気に入らない相手を次々に粛清するようになっていったのである。

 たいていは放課後の教室がその舞台となった。

 さんざんにいたぶられた一人の男の子が逆上し、ナイフを出して向かっていったのを、柔道を習っているというグループの中の男子が逆に投げ飛ばした、などという劇画みたいなことも実際に起こっていた。

 

 そして、遂にオレも彼らグループから標的とされる日が来た。

 たぶん普段から生意気な口の利き方ばかりしていたからだろうと、自分では思っていた。

 彼らは掃除当番でゴミ捨てに行ったオレを教室で待ち伏せしていたのである。

 彼らは戻ってきたオレに難癖をつけるといきなり教室に引きずり込もうとした。彼らグループは5〜6人というところであるが、誰かを粛清する時には面白がって加わる人間が必ずいるので、10人近い人間である。多勢に無勢でとても抵抗しきれるものではない。

 教室という密室に引きずり込まれたら、どんな辱めを受けるかはわかっていた。それだけは何としても避ける必要がある。

 咄嗟に思いついたのはドアのガラスを割ることであった。

 教室のドアにはガラスがはめ込まれている。教室に引っ張り込もうとする彼らの力に抗いながら、そのガラスを素手で何度も思い切り叩いた。

 何度目かでガラスを大きな音を立てて割れた。

 彼らの動きはそこで止まった。そこはやはり小学生なのである。ガラスが割れたとなれば先生がやって来る。面倒なことになったな、ということで、彼らの計画もそこで中断を余儀なくされた(基本的に小学生は先生には逆らわない、というのも昨今の風潮とは異なる点だと思う)。

 

 危うく虎口を脱して、同じ町内に住んでいる友人の男子と帰る道すがら、彼が何度も後を振り向きながら(もちろん彼らがつけてきているのではないかと警戒してのことである)意外な事実を教えてくれた。

 彼らがオレを狙ったのは、どうも「嫉妬」のためだというのである。

 彼らの方が勉強はずっとできる。にも関わらず、担任の林先生がオレにばかり手をかける。それが面白くなく、オレを憎悪するようになったということらしい。

(現在自分が教員になったからわかることだが、教員にとってはどうしても放って置いても出来る子供よりも、放って置いたらどうなるかわからない生徒の方に手をかけがちになるのである。だが、そんな事情が小学生にわかろうはずもない。)

 

 翌日、学校へ行くと、林先生に呼び出された。ガラスを割った件についてである。

 彼らグループは、オレがいたずらで何の理由もなくガラスを割ったのだ、というように口裏を合わせていたのである。

 だが、それが不自然だと思った林先生はオレから直接事情を聴こうとしたのである。

 林先生に理由を問われたオレは身を硬くした。そして、無言のまま俯いた。

 真実を話せば、きっと先生はオレの言うことを信じてくれるだろうとは思った。だが、その結果オレを庇ってくれれば、彼らの嫉妬心は更に強まり、憎悪は益々増幅していくことは目に見えていた。だから何も言えなかったのである。

 黙りこくったままのオレを林先生は不機嫌そうな、それでいて困ったような、複雑な表情で見つめつづけた。

 

 小学校卒業後、林先生と再会したのはオレが二十代の時だ。

 すでに高校の教員となっていたオレは、学校での仕事が終わると、帰りに通勤途中にある公営のスポーツセンターの中にあるトレーニング・ルームに定期的に寄って、筋力トレーニングを行っていた。

 そこは設備が比較的充実している上に値段も安く、割と遅めの時間でもやっているので、仕事帰りに寄るのに重宝だったのである(今思えば、あの頃は元気だったなぁ!)。

 偶然にも林先生はそこで受付の仕事をしていたのである。

 十数年ぶりの再会であったが、一目で林先生だとわかった。先生もオレのことをちゃんと覚えてくれていた。

 先生はすでに学校は定年退職していて、今はここの仕事をしているのだと教えてくれた。

 オレが高校の教員をやっていることや、定期的にトレーニングに励んでいることをとても喜んでくれた。

 

 けれども、その後仕事が忙しくなってしまい、残念ながらそのスポーツセンターに行くことはなくなってしまった。

 直接会う機会はなくなってしまったものの、小学校卒業以来、林先生にはずっと年賀状を出していて、先生はその都度必ず肉筆の心のこもったメッセージを添えた返事をくれていたので、その後も変わらず元気なのであろう、と思っていた。ずっとそう思っていた。

 ただ、今年の春の年賀状に関しては、印刷の文字だけで先生の肉筆の文字がないのが気にはなってはいた。

 まさかその三ヵ月後には永劫の眠りにつかれてしまっていたとは……。

 

 今、かつての恩師は天国にいる。

 このオロカな教え子のことを、今度は空から見守ってくれているだろうか。

 できればそうであってほしい、と願っている。

 かつて教室の一番前で、幼かったオレ達を見守ってくれていたように。

 

 先生、お世話になりました。どうぞ安らかにお眠りになってください。

 

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