腰痛エレジー その1

 昨年の晩秋に知人の奥さんが腰を痛めた。椎間板ヘルニアだという。そのため、一緒にキャンプに行く予定だったのが急遽中止となってしまった。

 原因は仕事のせいだという。パート仕事を2つもかけもちしていたのだが、そのうち一つが特に腰に負担の多い仕事で、痛みがひどくなり、無理を続けていたらとうとう動けなくなってしまったのだと言う。

 腰痛の痛みはよぉーくわかる。腰痛にはちょっと詳しいのだ。死んだ父が生前に椎間板ヘルニアで2回も手術を受けているし、その息子であるオレもやっぱり椎間板ヘルニアの手術を受けている。親子二代の言わば腰痛界(?)のサラブレッドという訳である。

 

 初めて痛みが出たのは二十代の前半。仕事でであった。

 当時の仕事は高田馬場の出版社で、塾相手に教材を売る会社であった。

 教材を売り込むためには現物が目の前になければ説得力に欠ける。そこで見本を持ち歩いて、それを置いてくることになるのだが、何件も回るためには大量の見本を持ち歩くことになる。

 書籍というのは、あれは重いものである。多量の見本を普通のバッグに入れても、重すぎて腕が痛くなりずっと持ち歩くことは不可能。そこでキャスター付きのバッグに入れて持ち歩くこととなった。と言っても、ずっと引きずっているわけにもいかず、階段の上り下りや駅で電車に乗るときは持ち上げて運ばなければならない。たぶん30s近くあったろう。ストラップを肩にかけて、「ふんっ!」と気合いを入れないと持ち上がらない程であったから。

 しかもそんな肉体労働に近いことをしながらも、服装は営業なのでスーツに革靴である。およそ肉体労働には適さない服装なのだ。

 夏場のスーツにこの重荷はつらく、外回りをするとすぐに汗がドッ噴き出した。買ったばかりのスーツはすぐにヨレヨレになり、靴底はあっという間に磨り減った。

 そんな調子でもって西東京各地の広い範囲を営業していたのであるが、最初こそ若いので何とか我慢して無理が利いたのが、徐々に腰への負担が蓄積していたのであろう。やがて運命の日を迎える。

 

 祖母が他界し、忌引休暇をとって葬儀に参列した日のことである。正座してお経を聞いているうちに腰に激しい痛みが出始めたのである。最初は何が何だかわからなかったが、葬儀の途中なので、そのまま正座の姿勢のまま我慢をしていて、お経が終わって立ち上がろうとしたら痛みで腰から砕け落ちた。

 その日は何とか家に帰り着き、翌朝、何とか痛みも治まったような気がしたので会社に出勤したのだが、歩いているうちにまた痛みがぶり返して、会社にたどり着く頃には何かにつかまらなければ歩けない程になっていた。

 会社に着くと、壁やら机やらにつかまりつつ、社長のところまで向かうのだが、周りの人間は何事かとあっけにとられている。ようやく社長の机のところまでたどり着き、事情を話すと、すぐに医者に行くことを許可してくれたので、一番近くの総合病院に行くことにした。

 といっても相変らず何かにつかまりながらでなければ満足に歩けないような状況であったから、病院へ行くのも重労働であった。しかしこのままほっておくこともできない。

 病院に辿り着いたものの痛くて立っていられない。しかし受付をしなければいつまでたっても診てもらえない。

 そこでよたよたと受付窓口まで進む。そして、受付のカウンターの縁につかまってずりずりと体を起こし、やっと頭を受付のところまで出して保険証を出した。

 受付の人はいきなり視界の下からにゅっと患者の頭が現れたので、さぞ驚いたことであろう。

 病状を話すとすぐにレントゲンを撮ってくれた。そして順番を待って診察室に入ると、レントゲン写真を見ながら医師は、

 「この骨と骨との隙間が狭くなってるでしょ。」とどこか悲しげな顔をして言った。

 「はあ。」

 「椎間板ヘルニアですね。」

 その病名はショックであった。父が患ったのと同じ病名だからだ。

 父は腰痛治療のために色々なことを試した。飲み薬もシップもマッサージも灸も針もあらゆることを試みた。しかし、どれ一つとして決定的な解決にならず、遂には歩けなくなって手術。一度は歩けるようになったものの、再発してまた手術。「腰が痛い」はもう殆ど日常の口癖となっていた。

 その恐るべき腰の病に自分もなってしまったことを知らされてガクゼンとした。

 しかし、ガクゼンとしつつも、どこかホッとした気分もあった。それは、腰を痛めたことで、あのくそ重い教材担いでの営業から解放されることを思ったからである。

 行きと同様、苦労しながら会社にやっとこ戻ると社長に病名を告げた。何故か社長は笑い出した。「いや、笑っちゃ悪いんだが……」と言い添えつつも笑い続けた。こっちもつられて苦笑した。考えてみれば教材屋が本の重さで腰を痛める、というのはまるでマンガである。

 社長はもう外回りの営業は無理と判断してくれて、オレを内勤の編集の方の仕事にまわしてくれた。

 無理な担ぎ屋営業をやめたおかげなのだろう、腰の痛みは痛み止めの薬とシップとで徐々に治まっていき、日常生活には何の不便もないくらいにまでに回復していった。

 

 だが、それはその後何年にも渡って続く腰痛との戦いの第一幕の終わりに過ぎなかったのである。

 

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