馬刺し屋逆上

 デパートやスーパーなどの「試食販売」というのが好きである。と言っても好きなのはもっぱら「試食」の部分なのであるが。

 買い物で子供が一緒にいたりすると、けっこう店員さんも気前よくくれるのでありがたい。明らかに買う気がない時はちょっともらいづらいし、ましてや男一人だけだとなおさらだ。

 そう言えば、この間スーパーでドレッシングの試食販売をやっていたおばちゃんからこんな話を聞いた。

 「あのねー、普通にとっていってくれればいいのよー。さっきのお兄さんは取るなりいきなり走って逃げて行ったけれど、追いかけたりしないわよぉー。ホホホ。」

 そう言って笑っていたけれども、そのお兄さんはよっぽど気恥ずかしかったのであろうか。

 ちなみにこのおばちゃんは気前よく小皿のサラダのおかわりをくれるし話も面白いので、結局そのドレッシングを購入してしまった。

 

 ところで、デパートの試食販売でこんなことがあった。

 名店街だったか熊本物産展だったか、けっこう高級食材である馬刺しの試食販売をやっていたのである。

 馬刺しは生ものなので、冷蔵ケースの中に入れられており、その奥の方に試食用に切り分けられた馬刺しとタレとが盛られた皿が楊枝とともに置いてあった。そして販売員のおばちゃんが、そこから馬刺しを楊枝に刺して客に渡していた。

 冷蔵ケースの奥といっても、客の側からすぐに手の届く程度の距離の位置である。自然な流れとして、何人かの客が直接楊枝をとって馬刺しを口に運んだ。周りの人もその状況を見て、当然続いていく。

 おばちゃんは「あっ、ちょっと待っててくださいね」などと努めて冷静を装って客をさばこうとしていたが、次々に馬刺しに群がってくる客に、ついキレた。

 運悪く、それは私が楊枝を手にしてちょうど馬刺しに突き刺した瞬間であった。

 「待ちなさい!」

 ビクッ(あわてて楊枝の手を引く)

 「こっから取ったら駄目なの!」

 おばちゃんは私の方を睨んでいた。他の客は逃げるようにその場から立ち去る中、なぜおばちゃんが私の方に視線を釘付けにしたかというと、私の手にはまだ楊枝が握られていたからである。ああ、しまった。

 「あのね、これは買っていただくお客様にだけ私の方でお渡しするの! 勝手にこっから取っちゃ駄目なの!」

 おばちゃんは息づかいも荒く、明らかに逆上していた。だいたい客をしかりつける時点でおかしいのだが、実際言っていることもおかしい。買う予定の客なら試食させる意味はない。試食させて美味しいと思ってもらって買わせるのでは? 試食を惜しんでいては意味がないのでは? しかしこれ以上怒られてもなんなので、ほうほうの体でまだ怒っているおばちゃんを背に楊枝を手にしたままその場から逃げた。

 

 試食販売で、前述のドレッシングおばちゃんのような気前のいい販売員だと、買う予定がなくてもついつい買ってしまうこともある。そういう時は、商売がうまいな、と思う。そしてそんな時に思い出すのがあの馬刺し屋だ。試食して何かを買う度に私はその場で必ずつぶやく。

 「これが客商売ってやつよ。見たか、馬刺し屋め!」

 もっとも毎回毎回のことなので、傍らで聞いてるカミさんはうんざりして、

 「また言ってる」と呆れ顔をするのであるが。

 

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