中年ドラゴンへの道(は遠い)

 今から三十年ほど前、日本中の若き男達に(あるいは女にも)大きな衝撃を与えた映画があった。

 それがブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」である。

 ブルース・リー扮する主人公が、カンフーの技を駆使して悪党を倒す、という単純な内容なのだが、なんといってもリーのスピーディーかつパワフルなカンフーアクションが半端でなく華麗で格好よかったのである。

 この映画のヒットによってカンフー・ブームが巻き起こり、類似のカンフー映画やテレビが続々と製作された。

 だが何といっても本家であるブルース・リーの人気は別格であった。リー自身はすでに他界してしまっていたが、彼の過去の作品である「ドラゴン危機一髪」「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」も次々に上映され、いずれも我々若者(当時)の血を熱くしたのである。

 ブルース・リーのアクションの魅力は、カンフーだけではなく、彼が劇中で使う「ヌンチャク」と呼ばれる武器にもあった。

 二本の棒を鎖でつなぎ合わせたその特殊な武器を、ブルース・リー演ずる主人公が目にも止まらぬ猛スピードで振り回して、多くの敵をバッタバッタとなぎ倒していく様は実にカッコよかった。

 

 さて、いつの世もカッコいいものに影響されると、それをそっくりそのまま真似ようとするのが若者の病理である。

 当時、オレは中学生だったのだが、自分も含め、実に多くの男達があの「ヌンチャク」を手にしたいと思った。

 ヌンチャクを「アチョー」と叫びながら高速で振り回してみたいと思った。

 だが、ヌンチャクなど当時はそこらで手に入るものではなかった。

 そこで、手ごろな長さと太さの木の棒切れを探してきて、それを金物屋で買い求めた鎖で連結させて「手製ヌンチャク」を作る者が続出した。

 手ごろな棒が手に入らないから、と学校のモップの柄を、階段の下に隠れて、持ち込んだノコギリの刃でゴシゴシやって「素材」に加工してしまう剛の者もいた(……オレじゃないゾ)。

 ただ、そうして手製ヌンチャクは作ってみたものの、どのように振り回したらいいのかがわからない。

 何しろブルース・リーのヌンチャク裁きはスピードがあって、肉眼ではちょっとその軌道がわからない上に、当時はビデオやDVD等もなく、映画館で実際に観る以外には情報の入手方法がなくてお手上げだったのである。

 だから、自分も含めて、適当に振ってはみるものの、ブルース・リーとのあまりの落差にがっかりして、すぐにヌンチャクを手にすることを辞めてしまう者がほとんどだった。

 

 ブームというのはすごいもので、一部の武道家しかつかわないようなマイナーな武器であったヌンチャクが、いつの間にか武道具店の店頭に出るようになっていった。

 ウィンド越しに見るそれは、リーが映画で使用したものと形状が異なり、棒の断面が八角形で、しかも鎖ではなく紐で連結されていた。値段も中学生にとっては決して安いものではなかったが、たまたま懐が豊かだった一友人がそれを購入した。

 数日後に彼は興奮気味にオレに言った。

「いやぁ、早速あのヌンチャクを使ってみたんだけど、すごい威力だったぜ。」

「へぇー、どれ位?」

「洗剤を入れるポリ容器あるだろ? あれを叩いたらこんなでっかい亀裂が入ったよ。」

 友人は指で大きさを示す。

「ふーん、それで、どんな風にやったんだい?」

「砂場にポリ容器を立てておいて、こうやってだな」

 友人は右上から斜め左下に向かって一直線に振り下ろすような動作をした。

「……」

 オレは心の中で思った(ただ振り下ろして威力があるだけだったら、木刀やバットと変わらんじゃんか!)

 その後、その友人のヌンチャクを見せてもらい、そっくり形状だけまねた手製のヌンチャクを木を加工して作ったりもしたが、いずれにしてもそれをどう振り回していいのかがわからず、結局は押入れの奥にしまいこまれることとなった。

 

 時は流れ、オレは社会人となり、ある程度自分のお金が自由に扱えるようになった。

 そして、ある時たまたま武道具店でヌンチャクを見つけた。だから「今度こそ」とそれを即座に購入することに躊躇はなかった。

 当時は既にビデオが普及しており、映画などのシーンを繰り返して観られるような環境となっていたのである。そこで、それらを参考にして見様見真似でヌンチャクを改めて振り回してみた。

 だがこれが難しい。とてもじゃないが、映画の登場人物のようにはいかない。あれこれ工夫してもどうもうまくいかない。

 そしてスピードを上げようと逆手に持って回しているうちに、肘を直撃した。ご存知の通り、肘の辺りには神経の集まっている部分がある。おかげで肘から先のしびれが一週間とれなかった。それほど痛かったのである。

 こうして、このヌンチャクも押入れの奥に消えた。

 

 再び時は流れた。リアルタイムの現在である。

 実はかつて押入れのダンボール箱の中に封印されていたヌンチャク達が、陽の当たる場所に引っ張り出されているのである。

 昨年、空手部の合宿についていった時、そこで空手部員から本格的なヌンチャクの振り回し方をレクチャーしてもらったのである。

 利にかなった振り回し方がわかると、俄然面白くなる。仕事の合間を見ては、熱心に練習するようになった。中年になってからドラゴンへの道が再開されたのである。

 ただ、もちろん思いっきり振り回すのであるから、怪我することは多い。最初の頃は片手で振り回したヌンチャクをもう片手でキャッチする時に、うまく位置が合わなくて指に当たってしまい、指先が青く腫れ上がることが多かった。その青く腫れた指のところに再度また失敗してヌンチャクが当たる時もあり、その痛さときたら……。

 

 さて、そういった練習の成果があって、だんだんとヌンチャクがスピーディーに振れるようになってきた。

 もちろんブルース・リーにはまだまだ遠く及ばないが(ただし一般的にアクション映画で使用するヌンチャクは、撮影用にやや質量の軽いものを使用するので、あんなに早く振れるのである。もちろん安全性を考えてのことであろう)、それなりに振れるようになると、自分がアクション映画のヒーローになったような気がする。

 やっと中学時代からの夢がかないそうになってきた訳である。

 しかし、何事も油断はいけない。

 ある日のこと、二つのヌンチャクを両手で同時に振り回すという高度な技の練習をしていた時に、「ここはもう少し角度を変えた方が……」ということを回しながらちらっと考えてしまったのである。この一瞬の気の迷いがヌンチャクの軌道を変えてしまった。そして、それはオレの頭部を直撃したのである。

「うー」。オレは頭を抱えて倒れた。幸か不幸か、練習をしていたトレーニングルームには、その時オレしかいなかった。だから一人でうめきつつ痛みに耐えた。

 しばらく倒れていたら、まだジンジンするものの、どうにか痛みが落ち着いてきた。やれやれと立ち上がったところ、顔に温かいものがすっと流れ落ちた。

「?」。オレは顔に手をやった。そしてその手を見て驚いた。血なのである。

「うわっ」

 今度はヌンチャクが当たった辺りの頭部を触ってみた。髪の毛がぐっしょりと濡れている。恐る恐る手を見ると血糊でべったりと赤い。

「うひゃあ」

 生温かい血は次から次へと流れ出てくる。とりあえず一度座って下を向き、血がとまるのを待ったほうがよさそうである。だが、血はポタリポタリとかなりの勢いで床を赤く染め上げていった。なんかすごいことになってきた。願はくはここに人がやってこないことを祈るばかりである。

 数分後、ようやく血が止まったようなので、とりあえず洗面所に行って血を流さねば、と立ち上がって、トレーニングルームに設置してある姿見に映った自分の顔を見た。

「ひええ」

 頭部から流れ出た血で顔面が半分赤く染まっている。アクション映画どころか、これではどうみてもホラー映画である。自分でわかっていてもオソロシイのだから、人が見たら大変なことになるだろう。

 トレーニングルームから人目を忍んで洗面所に移動し、頭と顔を洗って血を流し、なんとか誰にもみつからずに後始末をすることができた。

 後でヌンチャクを見てみたら、ヌンチャクにも血がべったりとついていた(ひええ)。よほど勢いよく、しかも血管のある辺りを直撃したのであろう。頭部というのは怪我をすると血が流れやすいということも、プロレスの流血試合というのがウソでないことも、身を持って知った。

 

 さて、その後も懲りずにヌンチャクの練習は続いている。もちろん未だに怪我はするし青アザもつくる。テニス肘になって痛みが半年とれなかったりもした。

 それでも辞めないのは、遠い中学生の頃のあこがれがあるからだろう。ヌンチャクを振り回していると、あの頃の単純で清廉な気持ちが蘇ってくるような気がするのである。

 ただ、気持ちがそうでも中年の体はおぼえが悪い。怪我をしないでスムーズに振れるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。

 中年ドラゴンへの道は遠い。

 

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