「無価値」であること
以前に、鬱病の可能性を自覚し始めたことを書いたが、その後も気持ちが激しく落ち込むことが不定期に続いている。
そういう状態がひどくなると、仕事にも日常生活にも支障をきたしてくるのだが、軽くなったり重くなったりには波があり、その合間をぬってなんとか今日までやってきた。職務に関して言えば、何といっても二十年以上やっているので、それなりに経験で乗り切れる部分というのはあるのだ。
だが、ここに来てちょっと限界を感じてきた。
最近読んだ『心臓を貫かれて』(マイケル・ギルモア著・村上春樹訳)という本の中に、次のような一節があった。
「僕は知っていた、誰かに去られることは拒絶されることであり、断罪されることであり、無価値であることを宣言されることなのだと。」
この言葉が妙に印象に残った。特に「無価値」という言葉が心に突き刺さった。「無価値」というはまさに今の自分の状態を的確に表している言葉のように思えたのである。
本質的に言えば、生きることに「価値」を求めること事態がそもそも誤りであるのかもしれない。あらゆる生命は価値とは無関係に生まれては消えていくものなのだから。
だが、何らかの形で「自分には価値がある」と思い込まなければ生きていけないのが弱く悲しき人間の性なのである。
それ故、何らかの理由でその幻想を信じることができなくなり、自分に「価値」がないと思いはじめると、途端に生きることが苦しくなる。
元気で勢いのある時というのは、自然と人は集まってくるものだ。
だが逆に、それがなくなると人は自然と離れていく。まさに「あなたにはもうつきあうほどの価値はありません」と宣言するがごとくに。
そして「無価値」であることを宣言されれば生きる自信は一層失われる。そうすると更にまた人は離れていく。
絶望へのスパイラルのはじまりである。
この「無価値」という言葉が頭から離れなくなった。「オレは無価値なのだ」という考えにとらわれてそこから抜け出せなくなったのである。
そして、それはある時を境に激しく重い憂鬱に姿を変えた。それが不定期に襲ってくるのである。何の気なしに仕事をしていてもそれは突然頭の隅をかすめる。そのたびに重圧で「ぶるるっ」と全身が震えるのである。必死に目をつむって頭を抱えるが、どうすることも出来ない。それが過ぎ去るのを待つだけだ。こんなことは初めての経験であった。
「医者に行こう。」
やっと決心がついた。
思えば五年前に精神状態がおかしくなったことを自覚してから、ずっと考えていたことではあった。すでに精神科に通院していた同僚からも勧められてもいたのだが、ずっと二の足を踏んでいたのは以下の三つの理由による。
@「アルコールをやめろと言われるのではないか?」
現在、憂鬱を振り払う最良の友はサケである。だからサケを飲まずに一日を終えることはない。これを取り上げられる、というのは恐怖であった。
A「薬を処方してもらっても、途中で飲む気力がなくなり、結果として悪化させてしまうのではないか?」
何の薬でもそうだが、医師の処方箋に従って一定期間のみ続けなければ効果はない。それどころか、自己判断で勝手にやめるとマイナスに作用することすらあるのだ。無気力な今の自分には、強い意志を持って薬を飲み続けることなど、それ自体が不可能のように思えてしまうのである。
B「結局環境そのものが変わられなければ、何の解決にもならないのでは?」
たとえ治療を受けてそれがうまくいったとしても、仕事を含めた環境も性格も変えられないのだから、根本的な解決にはならないのではないか。いや、それどころかもし治療がうまくいかなければそれで万事休すではないのか。
そんなふうに、ずっとあれこれと逡巡していたのである。
だが、それでも、このまま何もしないで苦しんでいるよりはマシに思えてきたのである。
とりあえず、病院への予約電話は入れた。この選択が吉と出るか凶と出るか、後は運命に委ねるのみである。サイは投げられたのだ。