生きるのだろうか、いや違う!?

 今年の春、自分の母校である高校が閉校となった。

 少子化による統廃合が進んでいるため、人気のない学校や評判のよくない学校からなくなっていくのは致し方ないことである。

 なにしろ、偏差値は低いわ中退率は高いわ教員もその学校には異動したがらないわ、というかなりひどい高校だったので、廃校になってホッと胸をなでおろす地元の人もいたのではないかと思われる。

 創立からわずか32年の短い命であった。

 

 さて、その学校の近くには比較的大きな公園があり、毎年初夏になると花菖蒲が見事に咲くことで有名である。

 そのためか、高校の校章はその「花菖蒲」をデザイン化したものであり、校歌の中にも「菖蒲」が出てくる。

 在校時の三年間、何の疑問も抱かずに口にしていたその校歌であるが、ある時、その歌詞にはとんでもない誤りがあることを発見してしまった。

 それはこの歌詞の一番最後のサビの部分にある。

 

 星移り 人かわるとも

 郷の花 菖蒲さながら

 生きめやも われらはらから

 生きめやも

 

 「菖蒲」はもちろん「花菖蒲」のことであり、「菖蒲と花菖蒲は違うのだ」というのは当然指摘されるべきことだが、世の中には「○○菖蒲園」というものもあるし、「菖蒲まつり」などという名称も頻繁に使われるのだから、それほど目くじらを立てるほどのミスではないだろう(なにしろ得体の知れない養殖キノコも「しめじ」と詐称していたら、いつのまにか「しめじ」として定着してしまったりする世の中である)。

 それよりも、もっと重大なミスがある。

 それは「生きめやも」の「めやも」が推量の助動詞と反語の助詞の組み合わせだということだ。つまり、これをこのまま口語訳すると、「生きるのだろうか、いや、そんなことはない。生きない。」という意味になってしまうのである。これでは校歌の歌詞としてはあまりにもぶち壊しの内容となってしまう。

 なんでこんなミスをしたのか。実は理由についてある程度推測がつく。

 堀辰雄の代表作「風立ちぬ」の冒頭に、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩句の引用があるのだが、これを堀辰雄がこう訳しているのだ。

 

 風立ちぬ、いざ生きめやも

 

 だが、ヴァレリーの原文は「生きなければならない」という意味のフランス語である。そして、この「風立ちぬ」の「生きめやも」も前後の文脈から判断しても、明らかに「生きねばならぬ」というニュアンスで使っている。

 従って、これは堀辰雄が文語に訳す時に間違えたということになる。

 ところが、この誤訳は長い間あまり表立って指摘されることはなかった。古文をある程度きちんと学んだ人間ならば誰でもわかる間違えであるにもかかわらず。

 それは「堀辰雄」という文学史上に名を残すブランドがやはり大きく影響していることと思われる。「あの『堀辰雄』がそんな間違えをするはずがない」というものである(事実「あれは意図的なものである」という説を述べる人もいる。だが、残念ながらそれらの説はどれもが情緒的な解釈に終始し、文法的な裏づけは皆無であるため、贔屓の引き倒しの域を出ないように思われる)。

 

 もうおわかりであろう。

 我が母校の歌詞を作詞した人は、この誤訳の「生きめやも」を「生きねばならない」という意味だと勘違いして(たぶん「風立ちぬ」を読んだ人は皆そういう意味にとっているはずだ)、それをそのまま流用してしまった可能性が高いのである。そうでなければ「生きめやも」などというフレーズがすんなりとは出てくるとは思えない。

 

 年月が移り 人が変わろうとも

 郷の花である 花菖蒲のように

 生きるのだろうか、いや違う 我々は兄弟だ

 生きることがあろうか いや決して生きない

 

 あんまりと言えばあんまりの歌詞であり、こんな内容を卒業式で歌っていたのかと思うと脱力する。

「まったく、こんなことをやっているから廃校になっちゃうんだよ」と、今更ながらにあきれて横になり、しばらくぼぉっとしていたのであるが、突如としてあることに気がつき、思わず体を起こした。

「もしや作詞者は、この学校が将来凋落して廃校になることを予見していたのでは?」「そしてそのことを隠れたメッセージとしてここに盛り込んだのでは?」

 うーむ。だとしたら、作詞をした人は終末の予見者であったことになる。

 しかし、だからといってなんの慰めにもならないんだが。

 

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