老練の技を見た
近所に評判の魚屋がある。テレビでも何度も取り上げられたことのある有名な店だ。
鮮度のよい素材を安い値段で売るので、わざわざ遠くから買いに来る客も多い。なにしろその店は保存用の冷蔵庫を持たず、その日に仕入れた魚はすべてその日のうちに売り切ってしまうというのだから、それだけでもどれほど売れているか想像がつこうというものだ。
だから開店前から店の前には長蛇の列が出来、開店の12時半と同時に店内は満杯のすし詰め状態。それが、品物がすべて売れつくす午後3〜4時くらいのまでの時刻の間、ずっとつづくのだ。
そのような超人気店なので、買い物には少々のコツがいる。
店は基本的には二つのフロアからなり、入り口に近い方のフロアは壁際にずらっと冷蔵ケースが並んでおり、様々な生の魚介類を中心とした商品が並んでいる。そして、もう一つの出口に近いフロアは主に会計用のレジスターが並んでいる。
客はまず入り口側のフロアで買い物をすませ、出口側のフロアのレジに並ぶのであるが、超繁盛店であるため、二つのフロアをつなぐ通路にまでレジの行列があふれ出して伸びているのが常となっている。
ところで、その通路の両側にも加工品を中心とした商品が並んでいるのだが、そこはすでにもうレジにつながる三列くらいの行列であふれているため、例えば一番左端の列に並んでいる人は、右側のケースの商品を手にとることはできない。そこでこういう場合には左端の列の人が、右端の列の人に「すみませーん、ちょっと○○をとってもらえませんかー?」と声をかけるのである。長い間にそのようなルールが確立されたようで、声をかけられた方も「いくつですかー?」なんて答えたりしている。
さて、通路の先はレジのフロアなのだが、実はそこにも冷蔵ケースがあって商品が置いてあるのだ。
それもこれまたお買い得な本マグロである。
入口側のフロアにも大量のマグロのサクが売られているのだが、殆どがメバチマグロであり、それも冷凍しか置いていない。それに対し、この出口側のものは本マグロであり、しかも生のものが出ていることも少なくない。
ところが、この冷蔵ケースは通路側から見て一番右奥にあり、この冷蔵ケースの本マグロを買うためには、一度レジに並ぶ行列をかきわけかきわけそこまでたどり着いて商品を手にした後、また行列かきわけ引き返しての列の最後尾に並ぶか、最初から辛抱強く右奥の方に続く右端の列に並び続けるしかないのだ。
部位や大きさによって値段の違うマグロに関しては「ちょっととってもらえますか」という訳にはいかないのであった。
このようにこの魚屋で買い物をするときにはいくつかのお約束事項があるわけだが、つい先日、そのようなお約束事項の一切を超越した存在に出会った。
その日もいつものように入り口近くのフロアで商品を選んだ俺は、後は本マグロを買うために通路から右端の列に並んだのである。
ふと、傍らに買い物カゴをぶら下げた小柄な老婆の姿を目に留めた。
まあ、別に年をとった女性が買い物に来ていること自体は珍しいことではないのだが、その老婆というがなんとも頼りなさげで、最初真ん中の列に並んでいたのが、ギュウギュウ詰めの行列に押されるようにして、右端の列の方に押し流されてきたのだ。その表情は心なしか困惑・当惑といった雰囲気さえ漂っているように思えた。
オレは内心(あーあ、この店に来たことないのかな。ちゃんと並んでないとレジまで辿り着けないのになぁ)と思ったが、まあ、「そのうちに気がつくだろう」と傍観していた。
ところが、その老婆は右側に「困ったな」という表情のままに流されていき、右端の列を突き抜け、その先の商品の陳列ケースまで辿り着いて、そこの商品を物色し始めたのである。
なんだかあんまり自分の意思で動いているようには見えなかったが、老婆の目的は右側の商品だったのだろうか? しかし、これでは結局最初に並んでいた真ん中の列から完全に出てしまった訳である。
(せっかく真ん中の列に並んでいたのに。これじゃまた最後列から並び直しだぞ……)と思ったが、老婆はまるで気にすることなくせっせと商品をカゴに入れている。
老婆は必要な商品を手に入れたのか、この陳列ケースから離れたのだが、何と右側の列に途中から入り込もうとするではないか! もちろん立派な割り込みなのだが、老婆のあたかも自身が被害者であるかのようなくたびれた表情と、緩慢にして少しも強引さのない動きによって、列の誰からも反発を受けることなく、実に自然に列の中に入り込んでしまったのである。うーむ。
それだけではなかった。
さらに、老婆は買い忘れたものがあったのか、またしても自然に列を離れ、再び右側の陳列棚を物色し始め、そのまま商品を物色しつつ通路の奥に移動、またしても自然な動きでさっきより前方の列の途中に割り込もうとしたのである。その列の途中とは俺の直前であった。おい!
こっちはこのギュウギュウの行列にさっきからジッと耐えてやっとここまできたのだ。こんな無法がまかり通っては、いつまでたってもレジに辿り着くことができないではないか。
この際敬老精神も長幼の序もへったくれもない。俺は、自分の前に困惑の表情のまま入り込もうとする老婆を横から追い抜くようにして前の人の後ろにぴったりついてなんとかこの老婆が侵入してくるのを防ごうとした。老婆は相変らず「困ったな」という表情のまま、列に入り込めないでいる。そこを次の人がまた横から並び、老婆を列からシャットアウトする形となった。よしよし。
老人には厳しいようだが、社会にはルールというものがあるのだ。たとえ年長者でも不正は否定されねばならないのだ。これでよかったのだ。
そう思って俺はそのまま右側の列に並び続け、何とか目当ての本マグロの冷蔵ケースの前まで辿り着き、中トロのサクを手にした。
「やれやれ、後はレジまで辿り着くだけだ」とホッと胸をなでおろし、列の前の方を見てガクゼンとした。
なんと、件の老婆が俺よりも6人も前に並んでいて、今まさにちょうどレジの台の上に買い物カゴをのせようとしているところだったのである! ありゃりゃのりゃ!
いやはや、「この店に来たことないのかな」なんてとんでもない思い違いであった。それどころかこの店のシステムを知り尽くした上での百戦錬磨の戦術であった。
もし、これらの行為がもっと強引にずうずうしい態度で敢行されていたならば、必ずどこかで誰かに反発をくらって排除されていたはずである。
そうならなかったのは、ひとえにこの老婆が老獪にして熟達した技を駆使したからに他ならない。
そのあまりの見事さに、俺はもはや腹を立てるのを通り越し、「すげえや」と、ただただ感心してしまったのである。