そこのけそこのけ「私」が行く

 小学校二年生の娘の学校で学芸会があった。今年は低学年から高学年まで、皆体育館で劇をやるのだとか。

 二年生の劇に演技など期待するべくもないが、自分の娘が無事に成長している姿を観る、というだけでも足を運ぶ意義はあるので、休日のその日、学校に出かけていった。

 劇を行うために、体育館の入り口には暗幕があって、中に光が入らないようにしてあったのだが、ついでに張り紙で「フラッシュを使用しての撮影はご遠慮ください」との注意書きがあった。演劇をやっているときのフラッシュ禁止は常識であろう(役者の演技の妨げになる等理由はいくらでもある)。また、「ビデオ撮影は席に座ってか、所定の場所でお願いします」とある。これも昨今の撮影エスカレートぶりを考えれば当然のことであろう。運動会の時のように客席のあちらこちらに三脚をおったてられたらたまったものではないから(運動会の時はそうだった)。

 

 さて、娘の劇の順番が近くなってから体育館の中に入ったのであるが、両端に用意されたビデオ撮影場所には、いるわいるわ、大勢の親達(たいてい父親)が三脚にビデオをセットして劇を撮っている。

 見れば、誰も皆、ビデオのモニター画面を食い入るように見つめている。まあ、撮影しているのだから当たり前なのだが、この分だと彼らはずっと画面を見たまま劇を鑑賞し、家に帰ってからは撮影したビデオの映像をテレビで見ることと思われる。つまり、一度も自分の子供の生の演技を観ないまま、ということになる。なんだかなぁ。

 

 それはまだいい。趣味の問題だ。しかし、明らかに迷惑としか思えない親達が多いのにはマイッタ。正直、呆れると同時にぐったり疲れた。

 まずフラッシュ撮影。皆平気でバシバシと撮りまくっている。この人たちは自分の子供の写真が取れれば、劇の進行はどうでもいいのだろうか?

 そうかと思うと、後方の席でずっと立ったままの二人組がいる。その席で立たれるとすぐ後の立ち見の人が見えなくなって困るのだ。しかもその二人組、劇を観ているのではなくて、舞台の方など見向きもせずにずっと雑談を続けているのである。たぶんその劇には自分の子供が出ていないのであろう。自分達以外の子供や客はどうでもいいのか?

 また、席と席との間に通路が設けてあるのだが、その通路の真ん中辺に仁王立ちになってビデオ撮影をしている父親がいる。通行の邪魔である。

 しかし、だからといって、その父親を(ビデオを撮影中なのに)わざと突き飛ばすようにして脇を通り抜け、「邪魔なんだよォ!」と捨てゼリフを吐いて行く人がいるのにはもっと呆れる。言い様ってものがあるだろうに……。ケンカがしたくてしょうがないのだろうか?

 

 いつからこんなにも非常識な大人達が増えたのであろうか? 本来ならば、自分の子供がいるのだから、親として、大人として恥ずかしくない態度をとらなければならないはずなのに、逆にエゴむき出しである。

 

 しかし、こんなことで驚いてはいけない。非常識のチャンピオンは他にいたのだ。それはこの劇が行われる数日前の話である。

 学芸会は二日かけて行われる。初日は子供達が全員体育館に入ってお互いの劇を鑑賞し合い、二日目は保護者に劇を見てもらって劇のない学年の生徒は教室で授業を受けるという段取りになっていた。これは二日目が学校公開も兼ねているせいでもある。

 ところで、この初日と二日目とでは子供の劇の配役を一部変えている。演劇ではよくあることだ。台詞がある役があり、ない役もあるのだから、両方の役を経験させよう、ということであろう。この配慮事態は間違っていないと思う。

 ところがこれに不満を持つ親が出てきた。二日目の一般公開の日に自分の子供が台詞のない役になってしまった親達である。せっかく自分の子供の劇が観られるのに、台詞がないのはあんまりだ、ということである。

 まあ、この心情はわからないでもない。しかしこの親達の中の一人が「台本を変えてくれるよう学校に交渉に行こう」と言い出したとなると話は別だ。他の親達はさすがに尻込みしたものの、とうとうその言い出しっぺの本人は本当に学校にまで乗り込んだのだとか(学校側がどう対応したのかは知らない)。

 

 あちら立てればこちらが立たずだから、その親の不満を解消するためには、二日とも全員に何がしかの台詞をしゃべらせるしかないだろう。やれやれである。何十人もいる生徒全員に台詞を割り振っていたら、劇そのものが散漫になることは必至である。

 すべての役には意味がある。すべての人生に意味があるように。

 主役がいれば脇役がいて、台詞のある役があれば台詞のない役もある。すべての役に個々の役割があって、それらが組み合わさってこそ一つの完成された作品を形作ることができるのだ。どれかが欠けても、あるいは平等の美名のもとにどれをも平均化・均質化させてしまっても、演劇というものは成り立たない。

 そのことを学ぶために学校で「劇」というものが行われるのだ。

 そう。学校で行われることはすべて「勉強」なのだ。すべては生徒に何かを学ばせるためにやっているのであって、親に晴れ姿を見せることが主ではないのだ。

 自分の子供が表舞台で台詞のある役を演じれば晴れがましいのは当然だ。しかし、例えそうでなかったとしても、何らかの役なり仕事なりがまかせられているのであれば、親はぐっこらえて、子供に与えられたその仕事の意義を評価すべきだ。

 そうでなければ、誰も「縁の下の力持ち」の尊さを学ぶことはないし、それを誇りを持って引き受けることもできなくなってしまうではないか、と思うのである。

 何でも「私が」「僕が」「俺が」とひたすら自己主張することを是とする昨今の風潮には、ホントうんざりさせられる。

 

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