フォークでめしが食えるか!

 毎年クリスマスシーズンが近づくと思い出す。

 私の家は貧しかったので、食卓に肉をそのまま焼いた料理が出るのは年にホンの数度であった。それもたいていは鶏か豚であり、牛、つまりはビーフ・ステーキが出ることは年に一度あるかないかであった。

 さて、クリスマスである。この日には貧しい我が家にもクリスマスということで(別にキリスト教徒じゃないんだが)、食卓にごちそうが並ぶ。

 肉の焼いたものも、それもあこがれのビフテキがメインの料理として出ることもあった。

 そういう時、母は決まってフォークとナイフを出し、ついでご飯を茶碗ではなく皿に盛り付けた。なんでもレストランに行くとご飯はこのようにして出てくるのだとか。

 「ほぉっ!」と驚く私と兄を前に、父と母は更に言った「右手にナイフを持って左手でフォークを持ち、ご飯はこうやってフォークの背に乗せて食べるのだ」と。

 幼い兄弟は言われるままにやってみるが、これが難しい。うまく乗らないのだ。

 レストランでめしを食うというのは大変なことなんだなぁ、と幼心に思ったものである。

 

 その後、成長するにつれて何度かこの「皿乗せ飯」に遭遇することはあったが、うまく食えない上にどうにも気取った感じがして気恥ずかしく、たいていは適当におかずの方を右手のナイフで切り刻んで、その後フォークを右手に持ち替えて食う、という荒業(?)を駆使することがほとんどであった。もちろん内心(どーせオレは育ちが悪いんだ、それがどーしたコノヤロー)という自虐的な気持ちもかなりあったのだが。

 

 さて、大学4年の時、同じゼミの学生たちでめずらしくレストランに入って食事をした。おそらくはゼミ旅行の後か何かだったのだと思う。

 そこは洋食なので、当然ご飯は皿に盛り付けられて来た。

 私は例によって荒業で飯を食ったのだが(意外にも他にもお仲間が何人かいた)、割りといつも小奇麗な格好をしている裕福な学生達は、器用にフォークの背にご飯を乗せて口に運んだ。彼らはこういう店には来慣れていたのであろう。それは見事なまでに自然な動きであり、私の隣に座った地方出身の学生のぎこちない動きとは好対照であった。彼は裕福な学生達の器用なフォーク背乗せ飯をまねしようとするのだが、まるでうまくいかず、飯がポロポロとこぼれてしまうのである。

 私はなんとなく苦々しい気持ちになり、心の中で「オレは絶対にフォーク背乗せ飯なんかやるもんか」と思いつつ、右手のフォークに力を込めて飯を食い続けたのであった。

 

 その後、大人になるにつれて、イギリスにもフランスにも米食の習慣がないことを知った。イタリア人はリゾットを食べるが、その時はスプーンを使うということも知った。

 つまり、炊いた飯をナイフとフォークで食べる正式な作法など最初から存在しなかったのだ。

 ついでに欧米人が、フォークに何かを乗せる場合でも、たいてい腹側を使うのであって、わざわざ乗せにくい背側にものを乗せるということはない、ということも知った。

 あの「フォーク背乗せ飯」は、おそらくは日本人が考えたものに違いあるまい。どういうつもりだったのか。真面目だったのか、あるいは何かの洒落のつもりだったのか、それはわからない。わからないが何かのきっかけで日本中に知識として普及してしまったのである。

 だがこのヘンテコな作法によって、どれだけ多くの日本人があるいは卑屈になり、あるいは得意になり、あるいは食いづらい思いをし続けてきたことか。

 それを思うとなんとも腹立たしい。

 今だからこそ声を大にして言いたい。

 「こんなまるまったフォークの背中で飯が食えるか、バカヤロー!」

 

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