父の死
父が死んだ。突然の死だった。
夜遅くに実家の兄から電話がかかってきて救急病院に駆けつけた時には、すでに遺体となってしまった父がいた。
自宅のトイレに入ったまま、眠るように息をひきとり、それっきりだったとか。79歳。あと一月半生きていれば傘寿だったのに……。
父の死に顔は思ったよりも穏やかであった。苦しんだ様子は全くなかった。
父はどちらかというとワガママな人間であったかもしれない。「ゴーイング・マイウェイ」が口癖で、人の言うことに耳を傾けようとしないことが多かった。
父の父、すなわち祖父が死んでからは「ずっと家族を支えてきた」という話を何度も聞かされていたから、いつしか「頼れるものは自分のみ」という考えに至ったのかもしれない。だが、もともとの資質も関係していると思う。息子である自分がその資質を受け継いでいるからそれはわかる。
良くも悪くも自分の決めた「自分ルール」を守ることに忠実であったのである。
朝起きてから、夜寝るまでの一日の行動をすべて自分の決めた時間通りにこなすことを至上としていて、それは仕事を退職してからも変わらなかった。と言うより、かえって拍車がかかったようにさえ思う。
毎朝、まだあたりの暗い早朝に起き、病院並みに早い食事時間をきっちり守り、きちんと決めた距離を「散歩」と称して走るのに近いスピードで歩き、夜は誰よりも早く床に着いた。うっかりその後にテレビなどを見ていると、たとえまだ9時前であっても「うるさくて眠れない!」とよく怒られたものである。
椎間板ヘルニアで腰を痛めて歩けなくなり、手術してやっと歩けるようになった時も、すぐに無茶な「散歩」を再開・敢行し、誰が止めても言うことを聞こうとしなかった。そして再び痛みが生じて二度目の手術を受けるハメとなった。
しかしその後も「自分ルール」を曲げることなく、またしても「散歩」が再開された時には、もう誰も何も言わなかった。
年をとってからは、父のこういったスタイルは更にエスカレートしていったようで、その時にはすでに結婚して家を離れていた私は、たまに実家に帰った時に家族のボヤキをよく聞かされたものである。周囲がどんなに迷惑していても「自分ルール」を変えない父であったから、さぞや他の家族は苦労が耐えなかったことであろう。
そんな迷惑極まりない父の「自分ルール」であったが、改めて思い出してみると、悪い部分だけではなかったように思う。
父は若い頃から酒と賭け事が好きであったが、生活費を使い込んでしまったりしたことは記憶の限り一度もない。
また、母や子供に暴力をふるったことも一度もない(ただし物にあたるのでよく家の物を壊したが)。
浮気その他の女性問題で家族に気苦労をかけたことも一度もない。
そして、何よりも貧乏であったにもかかわらず、何度も失業したにもかかわらず、金のことで子供たちに惨めな思いをさせたこと一度もなく(ただし旅行のたぐいには全く連れて行ってくれなかったが)、私に至っては、家の経済状況を考えればかなりの無理があったにもかかわらず、大学まで行かせてもらった。
そんな父が冷たい躯となって目の前に横たわっている。
「何のことわりもなしに逝っちゃったよ」と兄が悲しげに言う。
年をとってからの父は病気や痛みの連続の人生だったように思う。二回も手術した椎間板ヘルニアをはじめ、膝間接のリューマチ、片目の失明、糖尿病、白内障、高血圧。特に、足腰が弱ってからの転倒しての怪我は日常茶飯事だった。
結婚して実家を離れてからも、父の体の安否のことはいつも気にしていた。重い病気になったらイヤだな、とずっと思っていた。
好もうと好まざるに関わらず、我々日本人の多くは病気となって長い闘病生活の果てに死を迎える。
重い病気になれば、長期に渡って苦しまなければならないし、周囲はその姿を見てやはり苦しまなければならないし、介護や看病の苦労はひと一筋縄ではないだろう。加えて膨大な治療費や入院費ものしかかってくるだろう。
一人の病人をきっかけに一家がバラバラに崩壊してしまった、という話さえ聞いたことがある。
だが、父はそれらを一切拒否して、自宅で一人静かに息をひきとった。まるでそれさえも「自分ルール」の延長であるかのように。
まだ、父が若くて元気だった頃、息子二人は何をやっても父にかなわなかった。
ポーカー・ゲーム等で智を競っても、腕相撲等で力を競っても。また、職人であった父は、カンナやのこぎりを駆使して、見事に家の傷んだところを修繕したり、立派な自宅用のテーブルや食器棚を作り上げたりもした。そんな時も息子たちは父親の腕前に感心の目を向けたものである。
そして父は、子供にそんな父親としての力を見せ付けた時には、決まって「どうだ」とばかりに誇らしげな笑みを浮かべるのが常であった。
父の穏やかな死に顔を見ていると、
(俺はおまえたちに何も余計な苦労をかけないで死んでいくんだぞ。どうだ。)
と、何か「自分ルール」を最後まで貫いたことを誇らしげに語りかけてくるような気さえしてくる。
そしてその時、俄かに生前のあの笑顔が思い出され、改めてどうしようもならない深い喪失感と悲しみが胸にこみ上げてくるのであった。