先輩、おめでとうございます

 久しぶりに部屋の片付けをしていたら、2004年7月の大学の広報誌が出てきた。

 パラパラとページをめくっていたら、卒業生が「太宰治賞」を受賞したと書いてあった。

 「ほう、どれどれ」とよく読んでみて、驚いた。なんと、受賞者は大学のゼミの先輩であった志賀泉さんだったからだ。

 顔写真も出ていたが、確かに本人である。20年以上お会いしていないが、精悍な顔つきは以前と全く変わっていなかった。

 

 志賀さんは、大学時代に私が最も尊敬していた先輩である。別に今回賞を取ったから言う訳ではないよ。

 志賀先輩は、私が3年生の時に近代文学専攻の林武志先生のゼミでゼミ長をしていた。そのゼミの説明会でお会いしたのが最初である。

 ところで、その時、志賀先輩は前に立って林ゼミの説明をしてくれたのだが、まずいことに黒板に誤字を書いてしまった。途中で気がついて訂正したのだが、国文科の人間が、後輩を前にして漢字の間違えをするというのはどうにも不覚であった。

 はたして後日、正式に林ゼミに参加希望した学生は、その年はとても少なかった。説明会に来た多くの学生は、皆他のゼミに行ってしまったのである。

 林先生はその頃体調を崩していらっしゃって、休みがちなことが多く、先行きが不安であった、というのが学生に避けられた本当の理由ではないかと思う。だが志賀先輩は、後々まで「あの時俺が字を間違えていなければ」と悔やんでいた。責任感の強い、誠実な人柄であった。

 

 そうかと思うと、その年の夏のゼミ合宿では、酔っ払った志賀先輩は、名前を言えば誰でも知っている川端康成ゆかりの名旅館の広間の障子に、軽快に踊りながら近づき、上から順にスポスポと指で穴をあけていったのである。

 「あんなことをして大丈夫だったんですか」と後で東京に帰ってから聞いてみたところ、「ああ、あれは別にいいんだ」と落ち着き払って言った。

 ユーモアがあって、後輩の面倒見がよい一方で、文学においてはあくまで真面目で厳しい。青白い文学青年というのではなく、確か剣道部の主将をしていたはずで、文武両道の人でもあった。

 

 そんな頼もしい志賀先輩が、窮した姿を私たちの前に見せたことが一度だけあった。

 卒業後の林武志先生の出版記念会で、である。

 久しぶりに会う志賀先輩は顔が憔悴しており、目つきも悪かった。言動もどこかおかしく、私たちが話しかけても、まともな返答がかえってこなかった。

 志賀先輩は、林先生を讃える来賓の数々のスピーチをろくに聞かずに、会場にある酒を片端から飲み続けていた。あきらかに私たちの知っている、あの志賀先輩とは異なっていた。

 「どうも生活がすさんでいるらしい」と他の先輩に教えてもらい、悲しい思いにとらわれた。

 

 最後にお会いしたのはその一年後位であろうか。林先生の自宅で新年会を催した時のことである。

 志賀先輩はすっかり心身の健康さを取り戻していた。出版記念会の頃は気持ちが荒れていたことを自ら振り返って過去形で語った。

 おかげでその時は、久しぶりに林先生を囲んでの楽しい歓談のひと時となった。

 途中、志賀先輩が急に真面目な顔になって言った言葉が、今でも忘れられない。

 「最近は、何か文章を書いているか。」

 就職してから文筆と縁遠くなってしまった私は首を横に振った。

 「書くことをやめては駄目だ。一日に一枚だけでもいい。毎日続ければ、一年間で365枚の長編になる。とにかく書き続けることが大切なんだ。」

 

 あれから何年が過ぎたのだろう。志賀先輩はその時の言葉を忠実に実行に移していたのである。決して諦めずに小説を書き続けていたのである。

 そして、今回の受賞。

 志賀先輩にはまたしても人生の生き方の手本を示してもらったように思う。「一念岩をも通す」「継続は力」は嘘ではないことを実践し、証明してみせてくれたのだから。

 

 馬鹿な後輩は、こうしてネット界の片隅で「馬刺し屋に叱られた」とか「釣り銭を間違えた」とかのしょうもない駄文しか書いていないのだから、まことに面目ない。反省。今回の志賀先輩の受賞は大きな励みになりました。

 

 志賀先輩、おめでとうございます。そして、ありがとうございます。

 

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